「サシェ……!? 一体、何が……」

 イスメトはすぐに事態を理解できなかった。
 ジタが何者かに刺されたことと、サシェの握る短刀が瞬時には結びつかず、無防備に少女へと歩み寄ってしまう。

 だが、セトは違った。

【オイ待て! このガキ、(こん)(とん)に憑かれてやがる!】
「えっ!?」

 そんな気配、全くなかった。
 イスメトが困惑する間にも、サシェは短刀を振り上げ飛びかかってくる。

 だがその動きは洗練されているとは言えない。
 イスメトが(とっ)()にその腕を掴むと、セトがそこへ(ひね)りを加え、反対の手で少女の首に手刀を叩き込んだ。

「セト!」
【こうする他ねェ!】

 イスメトの意志に反して動く体から神力が迸しり、サシェの体を電流のように駆け巡る。

「あっ、が……ぅっ!!」

 サシェは(うめ)きながら身をよじり、脱力した。

「オマエハ……セト様、ニ……相応(フサワ)シク、ナイ」
「え――」

 断末魔のように呟いて、混沌は少女の背中から煙のように染み出ていく。
 掴んだ腕を支えに、イスメトは少女をゆっくりと床に横たわらせた。

「ぐ……っ、妹、は……っ!」

 セトはイスメトの手でジタの傷口を押さえつける。

「【無事だ。止血する。口を閉じてろ】」
「ん、ぐ――ゥゥッ!!」

 砂漠の神の力によりその傷口は見る見る乾燥していく。
 血は凝結して(かさ)(ぶた)のように穴を覆った。

「【あくまでも応急処置だ。医者が来るまで動くな】」

 ジタは肩で息をしながら、友の顔で語る神に小さく頷き(  うなず  )を返した。
 しかし、医者を呼ぶ暇など無かった。

「一体、何が……」

 出入り口に垂らされた扉代わりの布を跳ね上げたイスメトは、外に広がる光景に目を見張る。
 あちこちで村人が村人を襲い、悲鳴や罵声が上がっていた。

【チッ――どいつもこいつも混沌に憑かれてやがる!】
「どうして!?」
【知らん! とにかく事態を収束させるのが先だ!】

 セトは神器を引き抜き、サシェと同様に己を見失い暴れる人々を一人ずつ、その柄で叩き伏せていく。
 これらの混沌はさほど力を持っていないのか、一撃で体から飛び出し、呆気なく神力に焼かれる。

【どこかに親玉がいるハズだ!】

 セトが言うが早いか。
 イスメトは背後からおぞましい気配を感じ、身を反転させた。
 立っているのは黒い人型の闇――ほんの一瞬、そう空目した。

「くくくっ、ひゃははっ……!」

 顔を二つに裂かんばかりに大口を開けて笑う男。
 その(ゆが)んだ笑みに、声に、イスメトは嫌というほど覚えがあった。

【……コイツか】

 村長の家の次男、ナムジが腹を押さえて大笑いしている。
 その足下には誰かが倒れていた。

「――ッ! アッサイ!!」

 ジタと同じく、背中に斬撃を()らった跡。
 背後から襲われたか。
 卑怯(ひきょう)な手口だ。

 もうサシェの時のような迷いは無い。
 イスメトは自然と体の主導権をセトから取り返し、目の前の青年に肉薄する。
 激しい金属音に空気が震えた。

 イスメトの突き出した(やり)はナムジの振るう剣に打ち払われる。
 剣が(まと)うのは黒い闇。
 羽虫の群れのようにうごめくそれは、イスメトの槍にまで絡みついてくる。

 だが、闇はイスメトに危害を加えることはできなかった。
 槍の刃が光を放ち、柄を這い上がろうとした闇を(ちり)へと変えたのだ。

【ありゃ呪具だ!】
「呪具……?」
【混沌を宿した武器だよ。アポピスの神器、とも言える】

 その説明は端的に、その存在の危険性をイスメトに伝えた。

「つまりあれが、村に混沌を振りまいてるんだな!」
【そういうこったッ!】

 イスメトはすぐさま呪具を奪い取ろうと攻撃を仕掛けるが、突きも()ぎも()()切りも、ナムジは軽々とかわし、あるいは打ち返す。

 イスメトは眉を寄せた。
 彼にこんな動きができるとは。

「っ、ナムジさん! その剣は危険だ! 早く捨てて!」

 青年はイスメトの忠告などどこ吹く風か、なおも笑い続けている。

「ひゃはっ……本当だ、本当だった! あの人の言った通りだった!」
「あの人……?」

 見開かれた瞳は、愉悦に細められていく。

「俺とお前に、違いなんかありゃしなかった! ただ神器を手に入れたかどうか! それだけだったんだ!」
「!? 何を言って――」
「くくくっ、まだ分からないのか? もうお前の天下は終わったって言ってんだよ、英雄の息子――ッ!!」

 間合いを詰めてくる黒の刃を、イスメトは柄で受け止める。
 早い。並みの人間のスピードじゃない。
 ナムジは嵐に振り乱れる木々のごとく、()(ちゃ)()(ちゃ)な動きで次々と斬撃を(たた)き付けてくる。

「俺も神器を手に入れた! 神の力を! 手に入れたんだぁぁぁッ!!」

 イスメトは斬撃を見切り、ギリギリのところで(かわ)す。
 そうしてがら空きの横腹に神力を込めた蹴りを(たた)()んだ。

 ナムジの体は勢いよく吹っ飛び、民家の壁を破壊する。
 しかし、よろよろと立ち上がった彼の顔には薄ら笑いが貼り付いたままだった。

「っ、あれで気絶しないのか……!」
【半ば混沌が操ってやがるからな】

 やはり、一連の動きはナムジ本人の実力ではないらしい。

「ナムジさん! それは混沌の力だ! 皆を魔獣に変える、危険なものなんだ!」
【それだけじゃねェ。呪具は持ち主をも取り込み、その魂を食い散らす。とっとと手放さねェとテメェ、終わるぞ】
「けひひっ……なんだぁ、焦ってんのか?」

 ナムジはねちっこい笑みを浮かべながら、漆黒の刃に指を()わせた。
 その闇の輝きに魅入られるように。

「そうだよなぁ……オアシスに二人も神の依代が現れたら、お前はもうトクベツじゃなくなるもんなぁぁぁ――ッ!!」

 ナムジが叫ぶと同時に、剣からおびただしい量の黒い闇が噴き上がる。
 それは夜よりも深い暗闇を周囲にまき散らしていく。

【コイツ――ッ!!】

 人々の上へと降り注ごうとする混沌の雨。
 セトはイスメトから飛び出し、〈支配の杖(ウアス)〉と赤雷(せきらい)によってそれを空中で()(はら)った。

【どうやらこっからは、手分けする必要がありそうだぜ――!】

 危険なのは、なにも黒い雨だけではない。
 ナムジの足下から染み出た黒い(みず)()まりから、見覚えのある頭がにゅるんと持ち上がっていく。

 黒の大蛇――アポピス。

 セトはイスメトの中へ戻ることなく戦杖を構え、闇の化身を(にら)みつける。
 それはこのアポピスが、オベリスクのヌシを操ったそれと同等に厄介な相手であることを意味していた。