「エス、ト……? なんで……そんな、馬鹿な……」

 イスメトはおずおずと少女へ歩み寄る。
 対する少女は、あっけらかんと伸びをしている。

「んー、目が覚めたらここにいたんだ。なんでだろ……あ! さてはイスメト、ボクを置いて一人で冒険してたんでしょ! その(やり)、神様ぱわーを感じるもん!」

 少女は神器を指さし、ふくれっ面を作った。
 イスメトはそんな彼女の柔らかな(ほお)にそっと両の手で触れ――つまんで左右に引っ張る。

「いででででっ! な、なひすんだひょー!」

 少女の抗議を受け、慌てて手を離した。

「ま、幻じゃ、ない……?」
「なんだよー! そういうのは自分のほっぺでやるんだぞ! こうやってー!」

 指から伝わってくる感触とぬくもり。
 ねじねじとつねり返される両頬の痛み。
 どれも本物だ。

「どうだ痛いだろー! ちゃんと現実だろー! うりうり~」
「い、痛ひよ……(すご)く……」

 イスメトは顔を(ゆが)めた。頬の痛みのせいではない。

「あ、ご、ごめんね。つねりすぎちゃったかな……?」

 エストははっとしたように手を引っ込める。

「ううん、違う……そうじゃないんだ……」

 本物だ。このエストは本物だ。
 これだけ近寄っても、混沌の気配を感じない。目が覚めていたのだ。
 オベリスクを取り戻し、旧神殿を回り、結界を強化した成果がようやく、実を結んだ。

「イスメト……?」

 気付けばイスメトは少女を抱きしめていた。
 単なる再会の挨拶にしては力強く、長すぎるその抱擁を、少女がどう思うかなど考える余裕もなかった。

「っ、エスト……良かった! 良かっ、た……っ!」

 一度決壊してしまうと、感情の波は(とど)まることを知らずに流れ出す。

 少女を抱きしめたまま(かす)かに肩を震わせる少年。
 少女は何を言うでもなく、そんな少年の背を優しく()でる。
 もはや、どちらが抱きしめられているのか分からなかった。

「そっか……本当に、大冒険をしてきたんだね」

 それはほんの数秒のこと。
 我に返ったイスメトは慌てて少女から身を離した。

「ごご、ごめん……っ!」

 腕でガシガシと目元を擦って情けない痕跡を必死に隠す。
 今さら過ぎて自分でも(あき)れた。
 少女は怒るでも照れるでもなく、いつもの笑顔を返してくる。

「聞かせてよ。キミの(ぼう)(けん)(たん)

 それからイスメトは彼女に今までのことを()い摘まんで話した。

 目覚めた旧神様のこと。
 オベリスクのこと。
 ホルスとの戦いや、神殿巡りのこと。

 そして、今起きている問題――

「僕は、ずっと……セトの足を引っ張ってる。そんなの最初から分かっていたことだけど……やっぱり今でも、自信がないんだ……」

 だいぶ支離滅裂だったかもしれない。
 きっと時系列にまとまってすらいなかった。
 それでもエストは楽しげに、時に心配そうに、相づちを打ちながら話を聞いてくれた。

「そっか……イスメト、いま苦しいんだね」

 正確にすべてが伝わらずとも、イスメトが依代という大任に押しつぶされかけている状況だけは彼女にも伝わったらしい。

「そうだ! ボクが少しの間だけ依代を交代してあげるよ! どんな戦士にも休息は必要さ!」

 エストの提案にイスメトは苦笑する。
 そこには『依代をやってみたい』という彼女の願望も混ざっている気がした。

「……それもいいかもね」

 案外、名案かもしれない。
 イスメトは今でもふと考えることがあった。
 もし、あの日セトに()()かれたのが自分ではなく、エストだったら。あるいはジタやアッサイだったら――と。

「でも……何にしたってセトに聞いてみなきゃだけど」
「それなら大丈夫! ボク、やり方知ってるんだ!」

 瞬間、イスメトの中で何かがズレる音がした。

 それは本当に微かな違和感。
 だからこそ、できれば無視したかった。
 久々に訪れた彼女との穏やかな日常が崩れていく音を聞きたいわけがなかった。

「言ったでしょ? ボクは将来、()()になるんだって。神子の仕事はね、神様を体に降ろして、その意志を代行することなんだ。ボクの力を使えば、キミから神様を()()がすことくらいワケないよ!」

 しかし、少女が意気揚々に語れば語るほど、イスメトの中の違和感は大きくなる。

「引き()がすって……」

 依代契約は、神と人間の合意のもとに行なわれる。
 肝心の神を()(もの)にしていいはずがない。
 そのくらい、エストなら心得ているはずなのに――

「大丈夫。何も心配いらないよ。ボクは子供の頃からずっと、我らが神の来たる日に備えて、その器となるためだけに育てられてきたんだ」
「え……?」
「だからね、イスメト――」

 少女は妖艶に(ほほ)()んだ。
 イスメトの中の違和感が最大限に膨れ上がる。
 同時に、目の前の大きな空色の瞳が、闇の色へと染まっていく。

「キミは頑張らなくていいんだよ。キミの知る神が目覚めることはもう、ないのだから――」

 直後、少女の背後から闇の触手が無数に伸び上がった。
 触手の先は蛇の頭を形作りながら、イスメトの体に幾重にも巻き付く。

「ぐっ――!」

 闇の牙が体中に食い込んでくる。
 感じるのは肉体的な痛みではなく、存在の根源を冒されるような苦痛。
 ナムジの時と同じだ。

「っ、神器よ!」

 闇が存在の致命的な部分にまで届く前に、槍を振るう。
 刃は弱々しくも赤光を(  しゃっこう )放ち、繰り手の意志に応じて混沌を焼き払った。

 目の前で何が起きているのか。
 答えはもう明白だ。

 今の今まで話していた彼女はエストではなく、アポピスだった。
 彼女は混沌に()()()()()()だったのだ。

「なんで……っ、どうして!」

 イスメトは自分の推測を打ち消す材料を必死に探す。

 認めたくなかった。
 この瞬間が訪れるまで、彼女は紛れもなく記憶の中にいるエストだった。
 抱きしめたあのぬくもりも、抱きしめ返してくれたあの優しさも、本物だった。

 そう信じたかった。

「混沌の気配なんか、全然――っ!」

 いくら姿に惑わされたとしても。
 セトが眠っていたとしても。

 これだけの闇の気配を、あの至近距離で全く感じないなんてことがあるのか。

「――それは、さっきボクが()(どう)(しゅ)を飲んだからかもしれないね」

 エストの姿をした闇は、悪戯(いたずら)を楽しむ悪女のように微笑する。

「知ってた? 特別な方法で作られた葡萄酒には、混沌の()()()を消す効能があるんだよ」
「っ!? それって、まさか――!」

 テセフ村で惨劇が起きた夜。
 村人は神殿から贈呈された葡萄酒を飲んでいた。
 呪具を持ち込んだと(おぼ)しきナムジも、その葡萄酒を大量にぶら下げた商隊を護衛していた。

 セトがギリギリまで混沌の気配に気づけなかったのも、あれだけ強い力を持った呪具の足取りが今なお掴めないのも、すべて葡萄酒が原因だとしたら――

 あの葡萄酒をメルカ達に渡した人物こそが、〈闇の教団〉に殉ずる黒幕。

「ふふっ……貴方(あなた)もお人が悪い。何も知らせず、気付かせぬまま、少女の腕の中で楽に眠らせてあげることもできたでしょうに」

 背後から近付く足音に、イスメトは振り返る。
 目の前には白い伝統的なローブの上から黒いフード付きのケープを被る、優男が立っていた。

「ザキール、さん……」

 見知った医療神官は、日頃と変わらぬ穏やかな笑みを浮かべていた。


目次へ戻る