イスメトが寝息を立て始めると、セトはその意識の奥底へ――
夢の中へと潜っていった。
普段の念話は依代の抱く感情の表層を読んでいるに過ぎない。
強い思いや意識的に念じられた言葉以外は、曖昧に流れ去ってしまう。
だが夜に見る夢は無意識の領域。
依代の魂の根本――人格を知るにはうってつけだった。
『とーさん、これあげる!』
早速、セトは一つの鮮やかな記憶に
その記憶の中にいる少年はまだ幼い子供で、
『おおっ! これは……えーと、何だ……? 布巾?』
『違うよ、
『おおっ、本当だ! なんか
少年は両腕を限界まで伸ばし、赤く染められた亜麻布を広げて見せる。
『はへー。父さんなんか自分の名前すら書けねーってのに……凄いなイスメト! さすが俺の息子!』
『神兵さんの、センショーキガン? なんだって!』
『おーそうか! じゃあ、これがあれば百万人力だ! ありがとな!』
いつの時代も、人の考えつくことに大差はない。
似たようなまじないにセトは覚えがあった。
この層には他にも、とりとめのない家族の記憶が無数に散らばっている。
『また魔獣を退治しに行くの?』
今度の少年は少し成長している。
が、恐らく九つにも満たぬ年頃だろう。
相も変わらず無防備で、世の憂苦など何一つ知らぬ顔だ。
『ああ。今度のはちょっと……長旅かな』
『長いってどれくらい? いつ帰ってくるの? 明日?』
『だはは! 出たよイスメトの「明日?」が』
一方で父親の顔には影がある。
それを見せまいと作る笑顔が、どこかよそよそしい。
『あー……、イスメト』
男は考えるように視線を泳がせた後、息子の前に
『父さん、あの塔でしばらく暮らすことになるんだ』
『え? オベリスクで? どうして?』
『誰かが塔の番人をしなきゃならない。イスメトや皆が、安心して暮らせるようにな』
その優しい
『だから、もし父さんが戻って来なくて寂しかったら、オベリスクを見ろ。父さんもそこからイスメトを見てるからな!』
『えーっ、やだよ! 番人なんかしなくていいから早く帰って来て!』
『まあまあ怒るな。お土産、持って帰ってやるから』
そう言うと少年は一時的に機嫌を直す。
が、いざ父が家を出ようとすると似たようなやり取りが繰り返された。
『ねえ、ぼくが会いに行くのもダメなの……?』
『んー、ダメだなぁ。当分は……』
泣きべそをかく少年。父親は笑った。
『そうだ! もしイスメトが将来、強い戦士になれたら、そん時は父さんの仕事を手伝いに来てくれ! それでどうだ?』
不意に、夢の世界が揺らぎを見せる。
依代の意識が覚醒しかけているらしい。
『う~……分かった!』
涙にはれた顔を擦って、少年も笑った。
『僕、強くなる。強くなって、絶対に父さんの仕事を手伝いに行くから!』
心拍の上昇。荒くなる寝息。
少し深入りしすぎたかと、セトは潜在意識への介入を中断した。
「……っ!!」
間もなくして、現実世界のイスメトが目を覚ます。
「っ、もう、いいのに……っ」
誰に言うでもなく小さく吐き捨て、彼は立ち上がった。
目元を
空は、朝と夜のグラデーションに彩られていた。
オアシスで顔を洗った少年は、その場で槍を振り回す。
いくつかの基本の型を汗がしたたり落ちるまで繰り返したら、今度は槍の先に
慣れた手付きだ。
日課か、はたまた悪夢を見た際のルーチンか。
いずれにせよこの鍛錬によって彼は、神に操られても壊れない最低限の
「あれ? 早いねーイスメト君!」
鍛錬は、商人達が起き出してくるまで続いた。
■ ■ ■
イスメトと商隊の旅は順調に進んだ。
何度か
それにしても、随分と遭遇頻度が高い気はするが。
【俺が神力チラつかせて、おびき寄せてるからな】
「ええっ!? なんでわざわざ!?」
【オマエを鍛えるため】
セトの衝撃的な告白にイスメトは度肝を抜かれた。
「そ、そんなことして商隊に被害が出たらどうする気だよ!」
【ちゃんと倒してんだろ。何怒ってやがる】
セトは全く悪びれもしない。
むしろ善意でやっているのだと言わんばかりである。
【つゥこった。あとはお前に任せた】
「ええ!? ちょっ、無理――ッ!」
そう言って体を返されたのはまさかの戦闘の真っ最中。
イスメトは
【もう十分、手本は示した。無理かどうかはやってから判断するんだな】
「そんな無茶苦茶な……!」
しかし、意外と何とかなるものだった。
セトの戦いを何度か体感したことで、イスメトはいつの間にか対
(……あれ? 分かる。次の動きが――見える!)
自分の体を武術の達人――というより達神――に操られる経験は、想像以上にイスメトの血肉となっていた。
普通、師の動きは目で盗むもの。
それがセトの場合、純粋な体験として体に
戦いにおいて、これ以上のカンニングはなかった。
(あれ……まただ)
さらにもう一つ、イスメトには気付きがあった。
それは、魔狼の上に
まるで本当に操縦しているかのようだった。
【言い忘れてたが。お前の見てる影みてェなソレ、幻覚じゃねェぞ】
「あ、そうなんだ……って、ええっ!?」
【あれも
セトはさらっととんでもない事実を教えてくれた。
【魔獣は、混沌に
「じゃあ、あの影みたいなのが魔獣の本体……ってこと?」
【そうだ。慣れりゃ、混沌の動きだけ見て対処できる。後出しジャンケンの要領だな】
思えばアポピスと戦った時から、この可能性に気付くべきだったのかもしれない。
【昔は、混沌や神が
幻覚は自分の弱さの象徴。
そう思っていたイスメトにとって、この事実は
これが才能の一種だったというならば、今まで自分を悩ませ縛っていたものとは一体、何だったのか。
【良かったな。これでお前は心置きなく、英雄を目指せる】
セトの言う通りなはずなのに、胸のモヤモヤはなぜだか悪化した気がした。
【んじゃま、今後の護衛は全部お前に任せたということで】
「えっ!? いやいや! また
【まァ何とかなるだろ。死にかけたら教えてくれ】
「ちょっ、セト――!?」
グースカといびきのような音が響き始めた。
正確には音ではないのだろうが。
そもそも神は寝るのか?
取り
(も、もしかして寝たフリ……)
疑惑はあったが、神に二言はなさそうだった。
それからも何度か魔獣に遭遇した。
数匹ではあったが、あのおぞましい甲虫とも戦った。
結論として、全く苦戦しなかった。
(この感じ……これならもしかして、本当にオベリスクも……)
自分の能力が飛躍的に向上していることを実感し、イスメトの心は少なからず上向く。だが、自信が付きそうになるたびに、過去から誰かの声が聞こえてくる気がした。
(――馬鹿か僕は。
【……】
少年が内心で己を否定するたびに、神は人知れず何事かを思案していた。
「はぁ~! やっと着いた~!」
旅に出て三日。
メルカは
商隊の前方には、荒涼とした山岳地帯が広がっていた。
(……着いちゃった)
イスメトもまた、仰ぎ見る。
この距離からでもよく見えた。
ひときわ高い丘の上にそびえ立ち、天を突きさす巨大な塔。
父が消息を絶った、オベリスクが。