「あれ……? ここは……」
気がついたとき、イスメトは夕日に染まる砂漠を空から見下ろしていた。
そこは村の近くの丘の上。
「あれは……僕……?」
丘とその先に広がる広大な砂漠。
果ての見えぬ砂の大地をひたすら走る少年――それを自分自身だと認識した瞬間、視点がその自分へと切り替わった。
それは夜に見る夢でしばしば起きうる現象。
ここは
もっとも、本人にその自覚はない。
【何ヲ、ソンナニ、急グ】
知らない声が問うてくる。
イスメトは特に疑心を抱くでもなく答える。
「追いつかなきゃ……早く!」
【何ニ? 何ノタメニ?】
潜在意識が、問いの答えを幻覚として映し出す。
砂と空しか見えぬ視界に、誰かの後ろ姿が現れた。
――そうだ僕は、あの背中をずっと追いかけていた。
「決まってるだろ! 僕は英雄にならなきゃいけない。早く父さんみたいな――」
【オマエが追っているのは、本当に父親か?】
唐突に、問いかける声が変わった。
背中が少しずつ近付いてくる。
彼は赤い長髪を
凶悪な笑みで、見下ろしてくる。
【誰が、誰に、追いつくだって?】
追いかけていたのは父の背中――ずっとそう思っていた。
だがいつしか少年の中で、超えるべき存在はすり替わっていた。
【ハッ、こいつァ傑作だ。オマエ、神にでもなるつもりかよ】
「ち、違う! 僕はただ、お前の隣に――」
言いかけてハッとする。
後ろでもなく、下でもなく。
ただ助けられるだけの存在としてではなく。
依代として、神の隣に当たり前のように立っていたい。
自分がそんな大それたことを――身の程知らずで傲慢で、馬鹿馬鹿しい子供じみた夢を抱いていたなんて思いもしなかった。
【ククク……クハハハハッ!! こいつァ傑作だ! 現実が見えてねェにもほどがある】
男は
意地の悪い笑みを浮かべて、
【テメェが一番よォく分かってんだろ。テメェの限界ってヤツを】
「っ……!」
走っても走っても、男との距離は縮まらない。
男はただ腰に手を当て、こちらを見下ろしているだけなのに。
いくら砂を蹴っても、どう
【たかがニンゲンに、神の相棒が本気で務まるとでも? 心配すんなゴミ虫。ハナからテメェにそんなことは期待しちゃいない】
「え……」
【テメェは今まで通り、ただ俺の助言を聞いて、手足になればいいんだよ】
神の手足になる。それは確かに、神から最初に求められた条件だ。
願いを叶えてもらう代わりに、体を貸す。
これはそういう単純な『契約』に過ぎない。
ああ、そうか。それで良かったのか。
自分と神との関係に、それ以上の意味も意義もない。
腹の中にうずくまっていた黒い何かが、ようやく重い腰を上げて移動を始めたような気がした。
僕は、頑張りすぎていたのか。
【ほォら、もう足が棒だろォ? そろそろ休めよ。砂に寝転ぶと気持ちがいいぞ?】
イスメトは砂に足を取られる。
いつもならば
本当に疲れていた。詳しいことは何も思い出せないが、ずっと必至に走ってきたことだけは覚えている。
あいつがそう言うなら、そろそろ休んだ方がいいのかもしれない――
【~~ッ! アホかこのウジ虫野郎がァァァ――ッ!!】
突如、大気を揺るがす大音声。
イスメトはビクッと体を跳ねさせた。
折れかけた膝は砂を踏みしめ、次の一歩を進めざるをえなくなる。
【ぜッッてェに止まるんじゃねェ! 混沌に呑まれっぞッ!!】
声は前からではなく、上から聞こえた。
直後、赤い天から一条の光が流星のごとく襲来する。
「――っ!?」
赤雷と
舞い上がる砂煙。イスメトは咄嗟に両腕で顔を覆う。
そうして次に顔を上げた時――前方には二人の神が立っていた。
【ハッ! よりによって俺が相手たァな……ッ!】
「セ、セトが……二人……!?」
赤い長髪を風に激しく揺らめかせながら
イスメトは
【まァだ寝ぼけてんのかグズが! テメェはとにかく走り続けろ! そんでこの砂漠を抜けやがれ!】
「で、でも……!」
【でももヘチマもねェ! ここはアポピスの見せる幻覚の中だ! ヤツの口車に乗って
一方のセトが唾を吐きかけんばかりに叫び散らすと、もう一方のセトがすかさず口を挟んでくる。
【ソイツの言葉に耳を貸すな! ソイツは偽モンだ!】
【アァッ!? どの口でほざきやがるこのクソ■■■■野郎が――ッ!!】
やがてセトとセトが言い争いを始めた。
それも、もの
あまりに人間離れした速度。イスメトはすぐにどちらがどちらか見分けが付かなくなった。
どちらの体からも、血のように神力が飛び散り、
激しい肉弾戦によって時に腕や足が弾け飛び、かと思えば再生して今度は〈
【――そら、オマエにこんな戦いができるか?】
また、セトの声が頭に響く。
もはや何が現実で、何が本物なのか。頭がこんがらがる。
【最初から『無理』なんだよ。オマエは俺と対等になどなれない】
魂の世界では、イスメトが本物だと認識するものこそが現実。
偽のセトが本物のセトと互角に戦い、その身を削り合っているのも、イスメトにとってはどちらも本物に見えているためだった。
しかし――
「……お前、嫌いなんじゃなかったのか。その言葉」
その均衡は今、崩れた。
瞬間、イスメトの思考がようやく晴れる。
イスメトは恐怖を押し殺し、二柱の神が争う戦場へ――砂嵐の中へと走り出す。
あいつは走り続けろと言った。
ここが現実世界でないとすれば、目の前で起きていることに意味はない。
だからこそ、あいつの言葉通りにすること。
『前に向かって走り続ける』こと。
きっと、それこそが現状打破の鍵だ。
【無謀な野郎だ。この嵐の中をヒトの身で進めるとでも?】
【ちィっと黙れや、ソックリ野郎!】
セトが、もう一方のセトを殴り飛ばす。
殴られた方のセトの姿が一瞬、黒く
その体からは無数の黒い手が飛び出し、蛇のごとく地を
「うあ――っ!?」
瞬く間に全身に絡みつく無数の蛇。
視界を闇で覆い尽くす、闇の
それらすべてを切り裂く、一陣の風。
「――っ、セト!?」
神風をその身に受け、宙に投げ出されるイスメト。
その目は、闇に組み付かれて視界の端へと消えるセトの姿を
【ッ、構うな! テメェがここを抜けりゃ俺も出られる!】
その姿を思わず追いそうになって――思いとどまる。
こっちは、『前』じゃない。
【そうだ、それでいい】
神は駆け出す少年を背に、ニヤリと笑った。
雄大で美しい砂漠の景色は、瞬く間に闇の色に浸食されていく。
イスメトが事態を正しく認識し始めたことで、
やがて世界は色を失う。
ただ一筋の希望――イスメトの前方から差し込む光を除いて。
【神器を握れ! そんであの裂け目に――叩き込め!】
セトの声と同時に、神器が手に現れる。
イスメトは勢いよく地を蹴った。
「だああぁぁぁぁ――ッ!!」
光の裂け目に
瞬間、闇の世界がひび割れ、砕け散った。
幻覚は弾け飛び、世界が急速に立体感を取り戻していく。
「あ……がっ……」
気付くと目の前に、見開かれた闇の瞳があった。
神器はイスメトを捕らえていた四つの尾を一瞬にして切り裂き、ナムジの胸を貫いている。
さらに槍か
「親、父……オレ、が……」
青年の体から大量の闇が吐き出される。
その闇に隠れ、イスメトの目を盗むようにして飛び出した小さな蛇。
そいつは、いつの間にか近くに現れた神の手によって捕縛され、握り潰された。
それにより、ナムジの全身を
「オレ、も……神の、戦士に……な、れ……」
ひゅうひゅうとか細い息が、半開きの口から漏れている。
その声は、青年本人のものに相違なかった。
胸を貫かれ、四肢は崩れ去り、ただ地に転がるだけの男。
それでもまだ生きているのは、単にその身にまとわりつく混沌の
「――っ」
イスメトは言いかけた言葉を
どんな形であれ、死にゆく戦士に手向ける言葉ではないと思った。
言葉の代わりに槍を突き出す。
刃は青年