「ぅぐっ……ごはッ!!」
青年が力無く崩れ落ちた後。
イスメトは地面に両手をつき、血の塊を吐き出した。
全身に染み入るような寒さに反して、腹部からはすべての思考を吹き飛ばしてしまいそうなほど
これは、長くはもたない。
医療知識などなくとも本能がそう警告した。
傷が深い。恐らく内臓も傷ついている。致命傷だ。
だが、裂かれた腹から次に出てきたものは臓物ではなく、温かな赤い光だった。
「っ、これ、は……神力……?」
湧き出る神の力が、イスメトの全身を修復していく。
砂漠の砂で養生する時とはまるで様子が違った。
傷の治癒速度が速い。速すぎる。
まるで肉体の『時』そのものが巻き戻っているかのようである。
何かが、おかしい。
イスメトは
セトによる治療行為は、あくまで自然治癒力を高める程度のものだったはず。
だからこそ大怪我をした後は数日間寝込んだり、痛みにうなされたりしてきたのだ。
『共鳴した神と依代は、神と人の性質を併せ持ち――神力による肉体の直接的な保護、修復、強化などを可能とする』
セトの説明が頭をよぎる。
それは逆に、〈共鳴〉ができなければこんな芸当は不可能だということを示している。
「セト……一体、どうなって――」
イスメトは、こちらへ歩み寄る神の姿を見上げ――言葉を失った。
砂のようにサラサラと流れ落ちる、赤い光の粒子。
それはセトの腹部から大量に流れ出ている。
裂かれ方、位置、深さ。
そのすべてがイスメトの負った傷と酷似していた。
その傷は、いつものように閉じることはない。
「セト……っ!!」
神は何を言うでもなく、ゆっくりと倒れるようにイスメトの中へと姿を消した。
「お前、まさか……」
理屈は分からない。
だが何が起きたのかだけは、なんとなく予想がついた。
【チッ……情けねェ声を出すな。ちと……力を使いすぎただけ、だ】
「
あのヌシとの戦闘の後ですら、無傷で笑って見せたセト。
そんなセトが、こんな格下相手にあんな傷を残すわけがない。
すぐに回復できるはずだ。
そもそも、何の代償もなく依代の肉体をすぐに治せると言うのなら、セトがこれまでに一切その驚異的な回復技術を披露してこなかった理由が分からない。
「お前……僕を、
セトはフゥっと長い息の後、観念したように弱々しい声を吐き出した。
【実際は……共鳴できずとも、傷の肩代わりぐらいならできんだよ】
神は依代の傷を引き受けた。
物理的にではなく、『致命傷を受けた』という事実をまるごと、一種の概念としてその魂に引き受けたのだ。
【つっても割に合わねェから……アテにされんのも困るが】
「なんで」
助かったとか、ありがとうだとか思う前に。
口走る。
「なんでそんなことした! 僕の代わりならいくらでもいるだろ! でも、お前が消えたらオアシスは――ッ!」
【オイ。勝手に殺すな。休めばなんてことはない。神はニンゲンほど、ヤワじゃ……ねェ】
セトのそのやけに低く落ち着いた声は、まるで痛みに耐えているかのようだった。
イスメトはその様子を見て嫌でも知った。
これは最終手段だったのだ。依代を何が何でも生かすための。
「なんで……なんで僕なんかのために! 神ならもっと、合理的に判断しろよ!!」
まずは感謝すべきだと訴える理性を押しのけてまで口から出たのは、たぶん、自分への怒りだった。
硬質化したあの腕を瞬時に切り落としていれば。
変な倫理観、
僕が最初から前だけを見ていれば。
セトがこんな深手を負うことなんて、なかった。
「こんなっ、ウジ虫野郎のために……っ、何やってんだよお前はッ!!」
【ハッ……そりゃごもっともなご意見、だが、よォ】
悲痛な叫びに答えるのは、かの神にしてはあまりにも、か細
【アイボウ失格――だな】
冗談っぽい笑いの混じったその言葉を最後に。
セトの声は聞こえなくなった。
■ ■ ■
テセフ村から半刻ほど歩いた砂漠の中に、その地下神殿はある。
改修工事が進められ、特に内部は以前再訪した時よりもさらに
緩やかな階段を上った最奥には、石を彫って作られた守護神の像が新たに設置されていた。
ここはセトの力が最も高まる場所――
そう彼自身が話していたことを思い出し、イスメトはこの場所を訪れた。
ここでなら、神の回復を少しでも早められるかもしれない。
テセフ村とその周辺では、ナムジを含め数人の死者が出た。
負傷者は多数。
ジタやアッサイは命に別状はなかったものの、大神殿の病室で安静を余儀なくされている。
「くそ……っ、どうすればいいんだよ……!」
新しい神像の台座に背を預けて座るイスメトは、一人頭を掻きむしる。
ナムジがいつどこで呪具を入手したのか。
メルカ達の証言では、ラフラ・オアシス周辺――商隊が
しかし、都市部から小規模集落までしらみつぶしに当たってみても、
そもそも、自分の第六感に自信があるわけでもない。
セトがいなければ確証などない上に、カルフの馬力も半減していた。
依代一人にできることは、想像以上に少なかった。
セトがいなければ結局、自分には何もできないのだ。
「……っ、エスト……」
こんな時、賢い彼女ならなんと言うだろう。
どんな風に言って、このどうしようもない男を奮い立たせるだろう。
あるいは大神官様なら、何か良い案を――
そこまで考えて、他人にすがってばかりの自分に嫌気が差す。
セトだって言っていたじゃないか。
誰も信用できないのだと。
誰がアポピスの――影の教団の遣いなのか、分からない以上は。
メルカにさえ、セトが今も眠り続けていることは話していない。
もしその事実が巡り巡って教団に伝わりでもしたら、今こそ好機と、さらなるバケモノを送り込んでくるかもしれない。
だから、今は目立つ行動を控えるべきだ。
今日の所はここで夜を明かし、明日にはいつも通り魔獣退治に出掛ける。
神術が使えずとも、それくらいはできるはずだ。
左手の甲を見る。
神の刻印は消滅している。
ナムジとの戦いで消費した神力は、今なお体に供給されることはない。
不安に耐えろ。
恐怖を押し殺せ。
セトが目覚めるまでの辛抱だ。
――でも、もしセトがこのまま目覚めなかったら?
イスメトは立てた膝に顔をうずめた。
「イスメト……?」
その時。
懐かしい声が、静寂の中に一粒だけ
泣きそうな顔もそのままに、立ち上がる。
セトの神像越しに振り返る。
視線の先は至聖所の最奥。
その場所には小さな穴がある。
彼女の眠る、あの穴が。
「エス、ト……?」
壁掛け
「だいじょうぶ……? イスメト」