刹那。
 赤い閃き(  ひらめ  )が目の前の悪魔に突き刺さる。
 バチバチィッと稲妻が()ぜ、大蛇の姿をした悪魔は(ちり)のように霧散していく。

 こんな所で、雷――?

 当惑するイスメトの頭に響くのは、少ししゃがれた気だるげな男の声だった。

【俺に願ったなら……助けてやらないことも、ねェぜ?】

 慌てて周囲を見渡すも、話者らしき人影は見当たらない。
 代わりに視界に入ったのは――

「……っ!?」

 部屋中にうごめく闇だった。
 羽虫の群れのような闇がどこからともなく生まれ、集い、あのおぞましい大蛇の形を再び取り戻そうとしている。

【アレはアポピス。(こん)(とん)の化身】
「こ、混沌……?」

 原初の世界にあったとされる闇。
 それがあの大蛇の正体だと声は言う。

【アレに物理的な攻撃は効かん。俺と同じく、神の次元に存在するモノだからな】
「神の……」

 事実、実体を持たない闇が(ひる)んだのは、ホルスの護符を投げつけた時だけだった。
 神の力ならば、あの闇に通用するということなのか。

「あ、貴方(あなた)は……神様……?」
【いかにも】

 声はあっさり肯定する。
 しかし、(あん)()するにはまだ早かった。

【望むなら、何でも一つ願いを聞いてやる。オマエかその娘、どちらかの命と引き換えにな】
「え……」

 物語に登場する神様は、絶対にこんなこと言わなかった。

【こちとら目覚めたばかりでねェ。色々と物入りなんだ】

 しかし、嘆く暇も、悩む時間も、他の選択肢もない。
 目の前には、形を取り戻そうとうごめく闇。
 腕の中には、気を失ったままの少女。

「っ、……わかりました」

 イスメトは、エストの(きや)(しや)な体をそっと祭壇の上に横たえる。
 もとより自分と彼女の命とでは、(てん)(びん)が釣り合うはずもなかった。

「ぼ、僕の命を(ささ)げます! だから……エストを助けて下さいっ!」
【クハハッ! 即答かよ。オマエ、大したイカれ野郎だな!】

 男の声が、確かに笑った。

「――っ!?」

 瞬間、足下から生じた風が、砂を(はら)みながらイスメトを取り巻く。
 まるで砂嵐の中へと閉じ込めるかのように。

 砂に(かす)む目を擦ると、ぼやけた視界に一人の男が映し出された。
 えらくガタイの良い戦士然とした男。
 それが目の前に浮いている。

 それだけでも正気を疑う光景だというのに――

「……っ!?」

 男の黒くたくましい肉体の上には、赤い目を凶悪に光らせる狼か、馬か、猪か( いのしし )、あるいはそれに類する全く別の何かの頭部が乗っていた。
 頭頂には二本の長い立て耳も確認できる。

 人じゃない。動物でもない。化け物だ。

 燃えるような赤い髪が炎のように揺れなびく。
 その様はまるで砂漠に揺れる(しん)()(ろう)のようで、一層この光景の現実味を否定していた。

 ――ああ、これもきっとアレだ。見えちゃいけないヤツ。

「ま、魔獣……」
【ハッ! 俺を魔獣呼ばわりたァ育ちが知れる。ここは有り難がるところだぞ、普通】

 異形は先ほどの声で不機嫌そうに呟く(  つぶや  )

【まァいい。契約は契約――だ!】

 イスメトが何事かを返す間もなく、体に衝撃が走った。

 目を落とす。
 自分の胸に、異形の腕が食い込んでいる。
 だが痛みはない。血の一滴すら落ちない。

 あの大蛇と同じだ。異形の手には実体がないのだ。

 しかし、イスメトの気分はすこぶる悪かった。
 まるで生命力そのものにでも触れられているかのような感覚に、冷や汗がどっと吹き出す。

 やがてゆっくりと体から引き抜かれた異形の手には、赤くて小さな何かが握られていた。

(え……これって――)

 実物を見たことはない。
 それでも、ソレが何なのかは不思議と分かった。

(僕、の……心臓?)

 異形はソレをひょいと頭上に放り投げ――その長い馬面の口で丸呑みにした。

【――契約、完了だ】

 途端、異形の姿は見る見る砂となり崩れ、風に混ざって消えていく。
 その風がやむと、その場にはイスメトだけが立っていた。
 穏やかだったその紫紺(しこん)の瞳に、赤く(どう)(もう)な光を宿らせて。

「【ハッ、残念だったなクソ蛇野郎! コイツはもう俺の体だぜ!】」

 何が起こっているのか、イスメトはすぐには理解できなかった。
 自分の体が勝手に動き、地を蹴って跳躍する。それも、ありえない高さまで。
 その足元を間一髪で食い破ったのは、あの黒い大蛇だった。

「【〈支配の杖(ウアス)〉!】」

 さらに自分の口が、意図せぬ言葉を叫ぶ。
 すると手元に一本の(つえ)が現れた。

 武器にも祭儀用にも見えるそれの先端は、先ほど見た異形の頭とそっくりな形をしている。
 目の部分には赤い宝石が光り、全体は光沢のある黒。
 部分的に金色で装飾されている。

 それは赤い光を(まと)い、神像が握っていた金の杖よりも美しく雄々しく、輝く。

【テメェは大人しく闇の底で、自分の尾ッポにでも喰らいついてろッ!!】

 (とう)(てき)された戦杖は(  せんじょう  )、矢のごとき勢いで混沌アポピスを地に縫い止めた。
 その衝撃で巻き上がった(ふん)(じん)が、互いに擦れ合いエネルギーを蓄積していく。
 時折チカッと光るのは、砂の粒子から生じた小さな稲光。

「【――《(塵嵐の雷轟(シエラ・アストラフィ))》!!】」

 刹那、赤い稲妻が四方八方から大蛇へと突き刺さる。
 闇のとぐろがうごめき、地響きのような(うな)(ごえ)で大気を揺るがした。

(す……すごい……)

 初めて目の当たりにした神術―(  しんじゅつ  )
 それも正真正銘、神が生み出した超常的現象にイスメトはただ見入っていた。

 アポピスの体はズタズタに引き裂かれ、塵となって爆散する。
 焦げた地面には、無傷の戦杖だけが突き立っていた。
 神はその杖を引き抜き、肩に預けて息をつく。

【ハッ。まァ、試運転としては上々――】

 しかしその時、不穏な気配が部屋の隅を()いずっていくのを感じた。

【――逃した、だと? この俺が】

 それは大蛇の尾の部分だった。
 体の大半を失ったというのに(すさ)まじい速さで地を駆けていく。
 向かう先には、少女の横たわる祭壇があった。

「っ、エスト!」
【コイツ、まさか――!】

 イスメトはそこで初めて声が出せることに気付く。
 しかし、何ができるでもなかった。

 敵の狙いに気付いた神は得物を構えるも、時すでに遅し。
 分裂した闇は少女の全身へ幾重にも巻き付き、その(なか)へと逃げ込んでいく。
 まるで人質を取るかのように。

【チッ!】

 神は振りかぶった得物を放たず下ろす。
 アポピスの狙いもまた自分と同じく、体を得て人間界に(けん)(げん)すること。
 本来なら、このまま戦杖(ウアス)で少女を貫くのが最も賢い選択だ。

 しかし――

【面倒な契約(ねがい)だなクソが! テメェの命を守れッてんなら楽だったのによォ!】

 今の神に、その選択だけはできなかった。

「【――()は流砂。()が敵を(  かたき  )沈める執念の(あし)(かせ)にして、(えん)(こん)の柩】(  ひつぎ  )

 アポピスに体を乗っ取られ、身を起こそうとする少女。
 その周囲を砂の嵐が包囲していく。

「【――《(愚王の棺獄(ロアス・サルコファガス))》!】」

 神の命令に従い、再び世界の秩序がねじ曲がる。

 石造りの祭壇がぼろぼろと崩れ落ち、流れる砂となって少女の身を絡め取った。
 そのまま全身を飲み込むや、砂は凝縮し元の石材へと戻っていく。
 その形状を、全く別の物へと作り変えながら。

【ハッ……まさか、封印だけで手一杯とはな】

 そうして少女がいた場所には一つの石棺が出来上がった。
 少女をその内に閉じ込めて。


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