神と依代は対等であるべき。
 いつだったかセトは、イスメトにそう忠告した。
 ただ神の機嫌を伺い、指示を待つような依代は、こういう局面で全く役に立たなくなる。

【ソイツはテメェの親の仇だ( かたき )! しっかり仕留めろ!】

 確固たる己を持つ者。
 強さへの欲求があり、(こん)(とん)と戦う理由を見定めている者。
 依代には、そういう人間が向いている。

【いくら俺がクソ強くても、()()いた肉体が生きている限り混沌は再生し続ける!】

 闇の体へ幾度となく戦杖を叩き込み、上へ上へと誘導しながら、セトは依代に呼びかけた。

 神と渡り合えるほどに肥大化した混沌――アポピスは、魔獣の肉体(なか)にその魂の核を隠す。そして自身の分身だけを外に出し、小癪(こしやく)な攻撃を繰り出すのだ。

 それが神に対して最も効果的だと、奴らは理解している。

 もともと精神体である神は、魔獣を直接攻撃できない。
 かといって、依代に乗り移った状態では人体による制約がかかり、混沌からの波状攻撃を(しの)ぎきれない場面も出てくる。
 そしてひとたび依代を失えば、物質世界との接点が消え、神は精神体すら保てなくなる。

 それが、神が神であるがゆえに従う〈秩序(マアト)〉による制約。
 その事実を、相手も経験的に知っているのだ。

 こういう手合いに勝つためには、何を置いても魔獣の肉体を滅ぼすしかない。
 だがそれは実質、依代にしかできないことである。

【テメェがテメェの力でソイツに勝てなきゃ、この勝負は(しま)いだと思えッ!】

 イスメトの遙か上方で、激しく打ち合うような轟音(ごうおん)とセトの声が降ってくる。
 それは本当に音なのか。それとも魂の波動か何かか。
 いずれにせよ、人知を超えた戦いが繰り広げられていることだけは優に想像できた。

「――っ!!」

 イスメトはヌシの繰り出す三度目の突進をなんとかかわす。
 二つの角を行き来するだけの単純な攻撃。
 それを避けるだけで、こんなにも消耗するとは。

(僕が勝たなきゃ……終わり……)

 ヌシが咆哮(ほうこう)を上げる。
 その口からびちゃびちゃと飛び散るのは、黒い闇の断片。

(まずい――!!)

 あれも恐らくは混沌だ。
 降りかかるそれを避けねばと頭上に注意を向けすぎて、イスメトは退路を断たれたことにすぐには気付けなかった。

 泥のような混沌は前後左右の床に着弾。
 足の踏み場を奪う。
 そこへ、本体による四度目の突進が迫っていた。

(ダメだ! これは本当に無理――)

 せめてもと、槍を体の前に構えて防御姿勢を取る。
 そしてヌシを見据えたその眼前で――

【――(塵嵐の雷轟(シエラ・アストラフィ))ッ!!】

 空気が、爆ぜた。

 電流がごとき神力をまとった嵐。
 セトの神術。(  しんじゆつ  )
 それにより周囲の混沌は焼き散らされ、ヌシは風に巻かれて数歩、後退する。

 半秒遅れて、セトがイスメトの前に着地した。

【おいテメェ! いま無理って――】
「い、言ってない!」

 助かったとか、ありがとうだとか思う前に。
 イスメトはセトへ反射的に言い返す。

「口に出したら、だろ! 出してないからな! 絶対に!」
【――ハッ!】

 セトはニィと口の端をつり上げ、床を蹴り上げる。
 その姿は再び頭上へと消えた。

【ならセーフ、だッ!!】

 直後。背後でまた轟音。
 それはセトが自身を追ってきた闇の塊を殴り飛ばし、階下へ突き落とす音だった。
 が、イスメトはそれを目で追うことなく、己の敵だけを見据える。

(こっちも……仕掛けるッ!!)

 ヌシは先の神術に煽られ(ひる)みはしたものの、大したダメージは負っていない。
 純粋な神の力が通用するのは、あくまでも同じ次元に存在する混沌だけ。
 修行の合間にセトはそう話していた。

 一方で、魔獣と同じく肉体を持った存在――依代を通して放たれた神力ならば、実体を伴う物理的な攻撃として魔獣にも通用する。

「――()は炎天。奪い与える熱砂の血風(けっぷう)

 昨夜、イスメトがセトから教わった神術は二つだけ。
 そのうちの一つは、既に一度体感していたからこそ、比較的容易に習得できた。

「――(上昇気流(アク・アエリオ))!」

 イスメトの体が軽くなる。
 神術(上昇気流(アク・アエリオ))は肉体の性質を風に近づける。
 体重をほとんど感じなくなり、俊敏さ、跳躍力、打撃への耐性などが抜群に上がる。

 だが、逆に言えばそれだけだ。
 攻勢で頼みとなるのは、もう一つの神術である。

『この神術は初歩にして最も汎用性が高い。だが今は、とにかくぶっ放すだけで手一杯だろう』

 イスメトは、昨夜のセトの言葉を脳内で反芻(はんすう)した。

『よって当面、コレを使うのは一日一度だけ。それも、撃って勝つか撃たずに負けるかの窮地に限り、使用することだ』

 砂漠に身を横たえながら、イスメトはその警告を()みしめた。
 何よりも動けない自分の体が、その事実を如実に物語っていたからだ。

『二度目を撃てば命はないと思え』

 イスメトは駆け出し、ヌシとの間合いを詰める。

 あの奥の手を使うにしろ使わないにしろ、まずは相手の動きを止めなければならない。
 そのための動きは三手。
 ヌシがこの直線上を二往復する間に考えついた。

(一手目――)

 ヌシが次の突進に向けて体勢を整えている。
 イスメトは(やり)を左手に持ち替え、地を蹴った。
 風のように軽い身のこなしで、ヌシの脇へと潜り込む。

 目的は攻撃ではない。
 ちょうどその位置に落ちていた、盾を拾い上げることだった。

 この階段には、かつて戦士が持ち込んだのであろう武具が至るところに散乱している。
 イスメトはその中でも、特に大きくて丈夫そうな盾を見繕っていた。

(二手目――っ!)

 ヌシはイスメトの接近を察知し、頭を大きく振るう。

 牙による突き上げ。
 イスメトは拾い上げた盾で受ける。
 踏ん張りがきかず、その体は軽々とヌシの頭上へと放り出された。

 だが問題はない。
 むしろ、(はな)からこれを狙っていた。

 神術によって軽くなった体はヌシの遙か頭上へ吹き飛ぶ。
 勢いが付きすぎて、上の階段の底に背中をぶつけたが()(さい)なことだ。

「――我、秩序(マアト)に准ずる神の僕―( しもべ  )―」

 唱えるは、神術による効果を打ち消すための宣言。
 これにより体は本来の重量を取り戻す。

(三手目――ッ!!)

 落下速度と自重を加えた上からの一撃により、ヌシの背中に神器が食い込む。

「ピギャアァァァァ――ッ」

 ヌシは身を()()らせ、()(たけ)びを上げた。
 イスメトは刺した槍を支えにその背に(また)がる。

「ん……ぐ……ッ!」

 外皮は想像以上に分厚く、刃は内臓まで至っていない。
 さらに押し込もうにも槍はビクともしない。
 これでは致命傷にならない。

 そこでふと、右腕に引っかけたままだった盾の存在を思い出す。
 これを(つち)のように槍の石突(いしづき)(たた)き付けてやれば、もっと深くまで刃が届くはずだ。

「――っ!!」

 盾を振り上げたところで激震に襲われる。
 ヌシが猛スピードで階段を駆け下り始めたのだ。
 イスメトは咄嗟に神器へしがみつくも、その両足は簡単に浮き上がる。

 風を切って暴れるヌシ。
 その背に立てられた旗のように、イスメトの体は()(すべ)もなく翻弄される。
 ヌシが踊り場の壁へ激突する度、体がバラバラになりそうなほどの衝撃に見舞われた。

 それを三度ほど繰り返した時。

「あ――」

 ついに腕が限界を迎える。
 イスメトは階段から放り出され、そのまま吹き抜けを落下した。

 思考が凍り付いた。

 どうすればいい?
 もう一度、神術で体を軽くする?
 いや、無理だ。

 今、この手に神器は無い。ヌシの体に刺さったままだ。
 神術は神合石(ネレクトラム)を起点に発動する。
 ここで唱えても不発に終わる。

 下が砂漠であれば、まだ可能性はあった。
 砂漠はセトの体も同然。
 神殿から飛び出したあの時のように、何とかなったかもしれない。

 しかし、待ち受けるのは硬くて冷たい石の床だ。

(死――……)

 驚嘆。焦燥。恐怖。
 それらにも増して強く燃え上がる、悔恨。

(まだ、仇を――……!!)

 一瞬にして噴き上がる、膨大な感情の高波。

「――っ!?」

 それを察知した神の手が、イスメトの背を、その服を、ぎりぎりのところで(つか)む。
 クンッと上に引っ張られ、平衡感覚がますます狂って、イスメトは落ちているのか昇っているのかも分からなくなった。

 一時的に加えられた上向きの力と、全身を包む風が落下速度を緩和する。
 お陰でイスメトは、一階まで落ちたものの軟着陸。
 全身に痛みは走ったが大事には至らなかった。

 一方、その遙か頭上では――

【ぐ、ゥゥッ……!】

 大蛇の姿へと転じたアポピスが、その巨大な口で光を()()んだところだった。
 黒い顎からはみ出て見えるのはセトの上半身。
 依代の救命を優先させた隙を突かれた。

【ク、ソ……がァァッ!!】

 それは初めて聞く、セトの苦鳴だった。


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