「――っ! セトっ!!」
【ッ、ボケカスが! テメェはテメェの心配だけしてろッ!!】

 セトはアポピスの上顎を(つか)みながら、イスメトに怒声を浴びせる。

【言っただろう! テメェが死ねば、この戦いは(しま)いなんだッ!!】

 その叱責はもっともだ。混沌(こんとん)に有効な手札を自分は持っていない。
 仮に持っていたとしても、セトには何度も助けられている状況だ。
 足を引っ張るのが目に見えている。

「……っ、クソッ!」

 階下へ落ちたイスメトを追って、ヌシが駆け下りてくる振動を感じる。
 イスメトは(ほお)を叩き、立ち上がった。
 己の至らなさに対する(いら)()ちも悔しさも、今は端に追いやって。

【ハッ。それでいい】

 セトは下に気を配りながらも、己を挟む大蛇の上顎を両腕で()(とど)める。
 鋭い闇の牙に手の平を貫かれても、その力は緩まない。
 むしろ、()まれた足で下顎を押さえつけ、徐々にその咬合(こうごう)力を押し返していた。

【クッ……ハハッ! そんなに俺が、憎いかよ!】

 その間、ずっと(にら)みつけてくるアポピスの目。
 セトは虚空のようなその瞳の奥に揺らぐ、確かな情念を感じ取っていた。

 アポピスの姿がまたも変化を始める。
 蛇の顔から鼻が伸び、長い耳と牙が生え、猪と兎と( いのしし うさぎ  )が合わさったようなシルエットを形成していく。
 その姿が、先の問いに対する何よりもの明確な答えだった。

【ハッ……まァ、そうだろうな】

 直後、顎を強引に押し開き、セトは敵の咥内(こうない)から飛び出す。
 血の代わりに飛び散る赤い光は、神の魂そのものとも言える神力。
 その光が全て失われた時、神はこの世から消滅する。

【だからこそテメェに、()われてやるわけにゃいかねェなァァァ――ッ!】

 再度召喚した戦杖(ウアス)を掴むセトは、不敵な笑みを崩さず。
 物質的しがらみの無い世界で、すでに幾戦目ともつかぬ攻防を再開した。

(よ、良かった……思ったより元気そうだ)

 再び頭上で響き始めた轟音(ごうおん)にむしろ安堵(あんど)しつつ、イスメトはヌシを見据えていた。
 階下へ降り立ったヌシは、相変わらずの闘争心で前足を()き鳴らしている。
 足場が広くなった分、お互いに動きやすくなった。

 これが吉と出るか凶と出るかは、やってみなければ分からない。

(まずは神器を――取り戻す!)

 イスメトは壁際に陣取り、突進してくる巨体をぎりぎりのところでかわす。
 壁に激突したヌシの動きが鈍ったところへ肉薄。
 この隙に、背後からその背に飛び乗る作戦だった。

「ぐあ――ッ!!」

 だが、(むち)のごとくしなる尾に(はじ)()ばされる。
 その尾は複数に枝分かれし、先端には蛇の頭が付いていた。

(後ろにも目があるってことか!)

 さらに、振り返ったヌシが突き上げによる追い打ちをかける。
 イスメトは盾を構えて受けるしかない。

「ぁ、ぐゥゥ――ッ!!」

 神術の補正がない状態で受ける一撃は、まさに骨が砕けんばかりの衝撃だった。
 体重は元に戻ったはずなのに、体はやはり宙へ軽々と放り出される。

(でも、これなら!)

 イスメトは咄嗟(とつさ)に空中で盾を振りかぶる。
 ヌシの上へと落下しながら、渾身(こんしん)の力で叩き付けた。
 その背には、かつてヌシに挑んだ戦士達の爪痕が――無数の武器が刺さっている。

「ピギィィィアァァァァ――ッ」

 ヌシが痛みにもがく間に、神器を抜き取りその背から飛び降りる。
 深追いは禁物。まずは距離を取って神術を体にかけ直すべきだ。

「う――っ!?」

 だが、突き上げを受けた際のダメージは確実に響いていた。

 右肩から背中にかけて、(きし)むような違和感と痛みが走る。
 どこかの骨がずれたか。あるいは筋肉の損傷か。
 いずれにせよバランスを崩し、イスメトは想定した距離の半分も走れずに床へ倒れ込む。

 そこへ再度、突撃してくるヌシの巨体。

「――っ、(上昇気流(アク・アエリオ))っ!!」

 なんとか間に合わせた詠唱と、やけくそで蹴り出した右足。
 イスメトは巨大な蹄に(  ひづめ  )すり潰される直前で脇へと逃れる。

 だがそれだけでは終わらない。
 立て続けに襲い来るのは突進時に生じた風だ。
 本来の重量すら失ったイスメトの体は入り口へ続く階段までたやすく吹き飛ばされ、転がり落ちていく。

 神術によってその衝撃はかなり緩和されていた。
 それでも、圧迫された肺からこみ上げる(せき)を吐き出す間、イスメトは動けない。

(いけない……! 早く移動しないと、ヌシが外に!)

 イスメトの背後、数キュビト先には開け放たれた扉がある。
 このまま追い打ちの突進を仕掛けられでもしたら、自分はもちろん、外にいる皆にも被害が出る可能性がある。

(あれ――でも、待てよ?)

 そこまで考えて、イスメトはふと疑問を抱いた。
 なぜヌシは八年もの長きにわたり、ずっとこの塔の中にいたのだろうか?
 あんな貫木(かんぬき)など吹き飛ばして、とっくに外へ出ていたっておかしくないのに。

 その答えは、目の前にあった。

「ピギュルルル……ピギィヤァァ――!」

 つっかえている。
 体の至る所に突き刺さった槍や刀剣が、一階の床を構成する石材にぶち当たって、ヌシはこの細い階段を降りられずにいた。

(これなら……)

 体がつっかえているにもかかわらず、こちらへ来ようと頭を突っ込んでは、ままならずに暴れるヌシ。
 図体(ずうたい)だけで頭脳はあまり働かない。
 それがコイツの大きな弱点。

(これなら――外さない!)

 イスメトは立ち上がり、神器を構えた。
 体には変わらず違和感がある。恐らく、もうまともに走ることすら難しい。
 だが動けないのは相手も同じ。奥の手を使うなら今だ。

(使えばロクに動けなくなる……使うなら、一度で決める!)

 イスメトは盾を捨てた。

「――()は吹き荒れる砂漠の一陣。力偉大なる者にして、嵐と暴風の領主――」

 神器の刃がひときわ赤く輝き、力を与えるようにイスメトの体を光で包み込む。
 同時に風が周囲を取り巻きだした。

 身からあふれ出た神力の一部が、赤い稲妻となってパリリッと弾ける。
 石の階段は、イスメトが踏み込むと同時にひび割れる。
 蹴りつけた時には、砕け散る。

 そして少年は、嵐となる。

「――(暴嵐神の豪腕(セテフ・グロゥシア))!!」

 力の奔流は、突き出した腕から(やり)へと伝播(でんぱ)する。
 それは赤き光をまとう暴風の渦となり、単純にして爆発的な破壊の力を対象へと流し込んだ。

 ヌシの巨体は襲い来る豪風に(まく)れ上がる。
 その強靱な(  きょうじん  )皮膚を食い破るのは、燃えるように輝く緋色の切っ先だ。
 まるで果物でも切るかのように、刀身は軽々とヌシの身を貫く。

 遅れて、轟音。

 赤雷(せきらい)に全身を焼かれた獣の声が、雷鳴のようにけたたましく周囲に轟い( とどろ )た。
 背中から壁へと(たた)()けられたヌシの腹には、大きな穴が開いている。そこから血とも(こん)(とん)ともつかぬどす黒い粘液を垂れ流しながら、巨体は力無く四肢を投げ出した。

「や……った……」

 それを見届けた後、イスメトもまた石の床に崩れ落ちる。

「父、さん……、僕、は……」

 声が()()く出ない。全身の感覚も分からない。
 だが、これだけは分かる。
 僕は父の仇を(  かたき  )――

【――ッ! まだだ! 退()けッ!!】

 その時。
 ヌシの目に再び(まが)(まが)しい光が灯るのを、セトは見逃さなかった。

「ピギイィオオォォォ――ォォン!!」

 ヨロヨロと起き上がったヌシは、血に濁った()(たけ)びと共に体液をまき散らし、その巨体を激しく揺さぶる。
 イスメトの奥の手は()しくも、ヌシの身を戒め(  いまし  )る数々の武器をその肉から()がした。

 よって身震いをしただけでそれらは吹っ飛び、凶器の雨となってイスメトを襲う。

【チィ――ッ!!】

 左腕をアポピスに()いつかれながらも、セトは咄嗟に階下へ突風を送り込む。
 だが、降り注ぐ鋭利な雨からイスメトを守るには、ヌシとの距離が近すぎた。

「うぐ――っ!」

 咆哮(ほうこう)の衝撃に(あお)られ、イスメトは床の上を転がる。
 そこへ飛来した、一本の古びた槍。

「ぐッ、ああああぁぁ――ッ!!」

 それはイスメトの左肩を貫き、その身を床に縫い止めた。


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