「聞け、セトの依代。オマエに宿る神は、いつまた混沌に墜ちるかも分からぬ弱き神だ」

 青と金の(そう)(ぼう)を不気味なほどに見開いて、ホルスはイスメトの目を(のぞ)()む。

「セトが……弱き、神……?」

 一瞥(いちべつ)をくれたホルスはくるりと身を翻す。
 まるで散歩でもするかのような軽い足取り。
 だがその声色は、敵を尋問する戦士のそれと変わらない。

「お前達は被害者とも言える。ずる賢いセトの口車に乗せられ、操られてきただけのな」

 己の優位性を示すように大弓で肩を叩きながら、ホルスはイスメトの周囲を歩く。
 その足が正面で止まった時、弓の先端に光る琥珀色の刃がイスメトの頬を浅く裂いた。

「よって今ここで選べ。このままセトに付いて、この国神ホルスを敵に回すか……それともセトを差し出して、我が保護下に戻るか」

 前者を選べば、この刃で首をはねる。
 言外にそう脅していることは明白だった。

貴方(あなた)の話が、仮に本当だったとしても……」

 イスメトは勝ち誇る二色の瞳を睨みつける。

「僕も、皆も……っ、セトの力を必要としてる」

 苦鳴の代わりに、言葉を絞り出す。

「セトがいなきゃ、僕はとっくの昔に死んでた……! セトのお陰で守られたものだって……たくさん、ある!」
「フン。お前はどうやら、自分達の城を持ったつもりでいるようだな」

 対するホルスは、汚物でも見るように目を細めるだけだ。

「だが、それは砂上の楼閣だ。今はそれで良くとも、ひとたびセトが闇に落ちれば、事態は反転するのだぞ」

 オベリスクのヌシは、混沌化したセトの神獣だった。
 となればホルスの話にも(しん)(じつ)()が出てくる。
 セトが荒神としてホルスに封印されたのなら、セトが神話で邪神とみなされた理由も、長い眠りについていた理由も、ヌシのことも、すべてが説明できる。

 しかし、それでもホルスの語る未来は仮説に過ぎない。
 セトが再び混沌に墜ちる未来――
 そんな「もしも」のためだけに、死に物狂いで手に入れた勝利と安寧を手放し、セトを売ってまで自分を信じろとこの神は言っている。

「……じゃあ、もし僕がセトを差し出すって言ったら……貴方は何をしてくれるんですか」
「この砂漠の結界を維持するための、最低限の神力くらいはくれてやろう」

 イスメトの口から失笑が漏れた。

「……何がおかしい」
「いや……なんか、ずるいと思って。それじゃまるで……セトの手柄を横取りに来たみたいだ」

 光の拘束がよりきつくなる。
 腕の骨がミシミシと悲鳴を上げる。

「口を慎め……坊や」
「……っ、図星ですか? 皆が魔獣で困ってる時には見向きもしないで、やっと全部が終わったって時に都合良く現れた、口先だけの国神サマ!」
「貴様――ッ!」

 目を見開いたホルスが弓を振りかぶる。
 が、不意にその動きがピタリと止まった。

「……ああ、分かってるさ。僕は冷静だ」

 うつむき、何事かをぼそぼそと呟く(  つぶや  )
 そして再び顔を上げた時には、先ほどまでの激情が影を潜めていた。
 大弓の先端はイスメトの首をはねる代わりに、(つえ)のように地を突き刺す。

「お前は砂漠の外を知らないのだろう。言わば井の中の蛙だ(  かわず  )。国政において必ず生じうる、のっぴきならない事情というものを理解できていない」
「っ……そうかもしれない。けどそれは、あんたも同じだ」

 ホルスの頬が、ピクリと動く。

「〈砂漠の民〉の苦しみも、願いも、誇りも……守ってきたものも、守れなかったものも……あんたは何一つ知らない。違うのか?」

 イスメトの体に、再び熱が上ってくる。

「たとえ、あんたが正しかったとしても、僕は――」

 イスメトは拘束された両腕に力を込めた。

「僕を戦士にしてくれたセトを、裏切ったりなんかしないッ!!」

 イスメトの叫びと呼応するように、その身を拘束する光が(はじ)()ぶ。

「……! 馬鹿な、僕の神術を破った!?」
【なァ、ホルス……一つ、忘れちゃいねェか?】

 ホルスは瞬時に弓を構える。
 その光の矢尻はイスメトの背後に向けられていた。

【確かに俺の力は不完全。オマエを相手取るにはちィっと骨が折れる。が――】

 セトは己を磔に( はりつけ )する光の(もり)から、腕を、足を、胴体を、順番に引きちぎっていく。
 それにより、その四肢のほとんどが光の粒子となって消し飛ぶ。
 だが、最初に再生した足で地を踏みしめ、セトはすでに歩き出していた。

【俺は不滅にして不屈――砂の大地の絶対王者】

 (しん)()(ろう)のように揺らぐ赤い長髪が風を纏う。
 その風に巻き上げられるように、セトの背後で倒壊した家屋が見る見る修復されていた。
 この町の建物の多くには、砂漠の砂が使われている。

【――本気で勝つ気か。砂漠で、俺に】
「……っ!」

 ホルスは弓を引き絞る。
 その照準は、今なお地に伏したままのイスメトに合わせられた。
 依代を持つ神同士の戦いにおいて、それは確かに合理的な判断だった。

 神格同士の戦いに決着は来ない。
 勝敗を決めるのはただ一つ。
 どちらが先に依代を失うかだ。

 立場が逆であれば、セトも同じ判断をしただろう。
 だが、この場、この時、この局面においてその選択をしたホルスは、〈砂漠の民〉を本当の意味で敵に回した。

「もうやめてぇぇ――ッ!!」

 両者の間へ割って入った少女。
 敵も味方も観客も、誰もがその行動に目を見張った。

「メルカ!? 駄目だ、逃げろ!」
「嫌! もうこんなのイヤだぁぁッ!」

 メルカはホルスの前に立ちはだかる。
 当然、ろくな武器も防具も何一つ身に着けていない。
 イスメトは折れた足でなんとか彼女に近付こうと()()く。

「……ちぃっ!」

 意外にも、ホルスは弓を下げた。
 理由はメルカの首に揺れる護符だった。

 護符と言ってもメルカ手製の単なる木彫り。
 何の神力も宿っていない。
 しかし、それが隼の( はやぶさ )形をしているというその一点において、ホルスは確かに動揺した。

「足手まといは百も承知だが――」

 さらに、乱入したのはメルカだけではない。

「嬢ちゃんが体張ってんのに、俺達が黙ってるわけにもいかんな」

 気付けばアッサイ率いる戦士達もまた、ホルスを包囲していた。


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