闇に呑まれていた視界が開ける。
美しい装飾の施された柱が幾本も並ぶ、石作りの宮殿。
その一室で、彼は目覚めた。
踏み込んだその部屋は自分の寝室。
記憶はひどく曖昧なのに、なぜかそんな気がした。
「あ……あ、あ……」
床に転がるそれを見て、彼の世界は暗転する。
冷たい石の床の感触。
それが生ぬるいものに浸食されていく。
「なん、で……エス、ト……」
抱き上げた少女は、驚くほどに軽かった。
それもそのはずだ。腕にかかるその重みは少女の上半身のもの。
そこから下は切り離されて、もう命と繋がっていない。だから、こんなに、軽い。
――別れの言葉すら交わさぬまま、彼は愛する者を失った。
床が赤い。
ただただ赤い。
――その血だまりはどこまでも続いていた。
「ジタ……サシェ……」
長く永遠に続くような廊下には彼のよく知る人々が、少女と同じような姿で転がっている。
「アッサイ……メルカ……」
なぜ、こんなことに。
誰が、こんなことを。
困惑する彼の
光の差し込む方へ振り向く。
大きな窓のふちに金髪の少年が立っている。
逆光の中でもはっきりと光る、青と金の
少年のその頬にも、手にも、赤い血がべっとりと付着している。
――こちらに気付いた少年は目を細め、にぃと
「――ッッッ!!」
瞬間、全身のすべての血液が沸き立った。
少年は極彩色の翼を広げ、窓の外へと姿を消す。
彼はすぐさま武器を取り、その後を追おうとした。
――暴力的衝動に、思考のすべてが侵された。
脳をも溶かす、激しい憎悪。
すべてを焼き尽くすその激情は、深淵から
どこからともなく現れた闇の使者が、細く長い無数の触手を伸ばし、彼の魂ごと神の存在を侵そうと試みる。
【――違う】
その直前で。
彼の視界は何者かの大きな手に覆われた。
【それはオマエの記憶じゃない】
背後から伸びた手に包まれるようにして、体が後方へと引っ張られる。
その声が、その手が、誰のものなのかを認識したとき。
血まみれの世界は空間ごと引き延ばされるように急速に遠ざかり、イスメトはようやく『自分』という存在を思い出した。
「うぐ……っ!?」
気がつくと、石の上で尻餅をついていた。
恥骨に響く痛みで、ここがどうやら現実の世界であることを認識する。
目の前で、赤い長髪が揺らめいている。
イスメトを後ろに庇うように、人身のセトが闇と
【ハッ……最ッ低の眠気覚ましだったぜ】
「セト!? もう大丈夫なのか!?」
イスメトは体勢を立て直しながら、神の背に呼びかける。
セトの体越しに、闇を
「えー、もう回復してたの? 我ながらしぶといなぁ」
【随分
セトはイスメトには返さず、エストへ――その内に宿る自身の半身へと〈
少女はそんな彼をからかうように、ぴょこぴょこと軽やかなステップを踏む。
「この
【
無邪気な笑顔を浮かべたまま、少女はふうんと鼻を鳴らす。
「――じゃあ、力尽くで引き込むだけだよ!」
渦巻く闇が少女の背後から全方向へと伸び上がる。
それはまるで悪魔の広げる漆黒の翼。
あれに包み込まれたら今度こそ、魂を闇に引きずり込まれるに違いない。
セトはイスメトの体で跳躍し、なだれ込んでくる闇を紙一重で
さらに地を蹴り、少女との間合いを詰める。
右手に神器、左手に〈
闇と闇との切れ間に、少女の
(あ――)
その体は岩壁に
その姿を見て、イスメトは危うく叫びそうになった。
「――っ!」
だが、抗議の言葉は
セトがアポピスに負ける時――それは恐らく、オアシスが滅ぶ時。
何も言えない。今は自分の感情を優先すべき時じゃない。そんなこと分かりきっている。
ゆえに、ここはセトが適任。セトに任せるべきなのだ。
その結果エストが死ぬことになっても。
【――俺には、オマエの願いが見えている】
依代の迷いを見透かすように。少年の魂の内で神は言った。
【だがその願いは、今の俺の手に余る。どうしても叶えたいってんなら、テメェで
(え? それは、どういう――)
己の肉体で行なわれる激しい戦闘を
神は、笑った気がした。
【どのみち俺はもう、この契約の対価を支払うしかねェんだ】
契約の対価。
『僕の命を
嫌な予感がした。
「セト! 待って――!」
それはセトが肉体から離れたことを意味していた。
赤い髪が揺れる。
「ふふっ――なにそれ、ヤケクソ?」
闇を全身にまとい、宙に浮かぶ少女。
セト
伸ばしたその腕は少女の肉体をすり抜けた。
「気でも触れたの? 精神体じゃ、ボクの体に傷の一つも――」
【当然だろ。ハナからそれが狙いだ】
「……なに?」
セトの腕は、少女の内側に宿る存在を直接
直後、赤い稲妻が周囲を焼き焦がさんばかり
「ぐ……っ! まさか、ボクを吸収する気か――!」
【とっとと
少女の全身を走り抜ける神力とセトの剛腕によって、その背から黒い闇の塊が引っ張り出されていく。
【受け取れ小僧――ッ!】
頭に声が響くと同時、イスメトは地を蹴っていた。
混沌の力から解放された少女。
その体は、浮力を失って真っ逆さまに落ちてくる。
その顔が石の床に激突するすんでのところで、滑り込んだイスメトの腕が少女を受け止めた。
「ぐ――ぅッ! エスト!!」
衝撃に全身が
ぬくもりがある。呼吸もしている。
「う……うぅん……?」
そして、ゆっくりと開かれた瞳は――
「イス、メト……? あれ? ボク、寝てた……?」
美しい空色の輝きを宿していた。
「っ、エスト――!」
イスメトは少女の様子にほっと息をつく。
だが、
【ククク――愚かダな。まサか、自ら
その声はセトのものではなく、エストから
瞬間、神々の力の均衡は一瞬にして崩される。
セトの掌中
「――っ!! セトッッ!!」
【ク、ハハ……まァ、こうなるわなァ】
セトは驚くでもなく、乾いた声で笑う。
【よォクソガキ。どうしても、テメェの
瞬く間に形成された闇のとぐろが、セトの精神体に幾重にも巻き付いていく。
セトの全身が、黒く染まっていく。
【逃げな。今すぐこの場から】
その言葉を最後に、イスメトはセトの姿を見失った。
刹那、膨張した闇が爆発する。
すべての光を呑み込む暗闇は、セトを中心に一つの宇宙でも創るかのように空間を侵していった。