カルフが風を切る。
 だがセトがいないせいだろうか。いつもより速度が出ない。
 いくらホルスが足止めをしているとはいえ、これではいつまでも追いつけない。

(こういう時、あいつは確か……)

 イスメトは左手の甲を確認する。
 神力の残数を示す刻印の数は全部で四つ。
 単純計算で四回ほど神術を使えることになるが――実際はそれほど余裕はない。

(あれだけ変形した肉体……強度もきっと半端じゃないはず)

 あの巨体が、神と一体化したことによって変貌したザキールの肉体だとすると恐らく、神器を刺した程度では殺すことができない。
 せいぜい表皮が削れるくらいだろう。

(あんなのに通用しそうな手は、あの術しか……)

暴嵐神の豪腕(セテフ・グロゥシア)》。
 あれを全力で放てば勝機はある――と思いたい。
 その後、神力を失った上にボロボロになった体で何ができるのかという疑問は残るが、どの道それくらいしか自分に打てる手はないのだ。

(となると、あの砂嵐に潜ってセトに近付けるまで……使える神術は一つだけ)

 全力の《暴嵐神の豪腕(セテフ・グロゥシア)》は他の神術と異なり、刻印三つ分の神力を消費することが分かっている。
 つまり、今自由にできる神力は実質、神術一回分なのだ。

 それでも、まずは攻撃が届く距離までセトに近付けなければ何にもならない。

「――神獣に命じる! 汝、(  なんじ  )我が足となり、(やり)となり、盾となれ!」

 イスメトはカルフの背に手を当て、力を分け与えるよう念じる。
 呪文はうろ覚えだったが、刻印はその願いに応えて光を放出した。
 それはカルフの全身を駆け巡っただけでなく、地面にまで赤雷(せきらい)を走らせる。

 セトの時はこのような現象は起きなかったはずだが。
 しかし幸い、(ろう)(ばい)するイスメトをよそにカルフの速度は目に見えて上がった。全速力とはいかずとも、このスピードならばあの砂嵐に追いつけるだろう。

 これで使える神術は実質ゼロ。

 たったこれだけのことで、すでに崖っぷちだ。
 今までどれほどセトに助けられてきたのかを痛感する。
 それでもイスメトは頭を振り、沸き上がる不安を無理やり追い出す。

 オベリスクの時と同じだ。最善なんか誰にも分からない。
 だから全力で考えて、動いて――最期まで抗う( あらが )
 それだけだ。

 全身を砂の粒が()()き始める。
 砂嵐の暴風域に踏み込んだのだ。

 ここまで来ると、もはやセトの全貌は確認することができない。
 頭上に計り知れない圧迫感が居座り続けるだけである。

 さらに、注意すべきは頭上だけではなかった。

「……あれ全部、魔獣か。エスト、準備は?」
「も、もも、もちろんオーケーだよっ!」

 エストの声はあからさまに震えていた。
 それも当然だ。
 前方には防壁のように連なりうねる、闇の大群が待ち受けている。

 闇は様々な動物の形をしているが、皆一様に赤黒く(ゆが)んだ(まが)(まが)しい瞳を、飢えた獣のようにギラつかせていた。

「――来る! しっかり縄を巻いて!」

 二人はあらかじめカルフの(くら)に結びつけておいた縄の輪を足に巻き付け、両手を自由にする。
 イスメトは槍を、エストは護符を握りしめ、闇との衝突に備えた。

 目的はセトの足下まで辿(たど)()くこと。
 魔獣の相手は最低限でいい。

(父さん……力を貸して下さい)

 槍の柄に額を当て、イスメトは短く息を吐く。
 体に力が湧いた気がした。

 前方から飛びかかってくる四つ足の獣。
 その形状は魔狼(ゼレヴ)に似ている。

 魔狼と異なるのは、(こん)(とん)の影が上に跨がるのではなく、完全に体と一体化していること。
 その獣の頭部に、セトやカルフに似た長い耳が生え出ていること。

 そして何より、自分より大きな相手が全速力で突っ込んでくるのを見ても動じず、自ら飛び込んでくる勇猛さがあることだ。

(こいつらも――〈セトの獣〉(  ティフォニアン  )なのか?)

 イスメトは槍の柄をギリギリと握り込む。

 もう二度と塔のヌシのような()(わい)(そう)な動物が現れないように。
 そう自分はオベリスクに願った。
 そしてあいつは、それを『良い願い』だと言った。

 その願いを、思いを、踏みにじられたような最低な気分だ。

 イスメトは神器を振るう。
 飛びかかってくる無数の影を、赤い流線が容赦なく両断していく。
 打ち()らしはカルフの牙が突き上げ、あるいは強引に体で(はじ)()ばす。

「絶対に止まるなカルフ! 前だけ見て進めぇぇぇ――ッ!!」
「ピギュルァァァ――ッ!!」

 そうしている間にも、体の各所を魔獣の爪が(かす)める。
 どれだけ切り払っても前方の闇は晴れない。

 魔獣の数が多すぎる。
 神器の切れ味も鈍ってきた。
 神器そのものに宿る神力が尽きかけているのだ。

(――どうする!? 神器に神力を込めるべきか!?)

 そうすると、刻印が残り二つとなり、全力の大技は使えなくなる。
 かといってこのままでは、セトに辿り着く前にやられるリスクが高まる。

「――主よ。星々の間に住まい、その目で世界を照らす偉大なる王者よ!」

 焦る少年の背をそっと支えるように、温かい光が後ろから広がってくる。
 カルフの体に縛り付けた大量の護符が、少女の詠唱に呼応して()(はく)(いろ)の力場を展開していく。

「今、闇を打ち払い、不浄なる者達から我らの魂を守り(たま)え――!」

 それは闇を焼き払う、聖なる浄化の力。

 セトの神力が(じゃ)()(はら)いむさぼり尽くす破壊の炎ならば、ホルスの神力は静謐ながら鮮烈に闇を焼き払う裁きの光。

 その光に踏み込んだ瞬間、魔獣の体は溶けるように分解され、風の中に消え去っていく。
 気配を察してか、飛びかかってくる魔獣の数も減少を始めた。

(いける――! これなら、力を温存したままアイツの足下まで――!)

 しかし、イスメトは知らなかった。
 普通の人間が護符に込められた神力を最大限に解き放つために必要な集中力と、その代償を。

「エスト(すご)いよ! 君はやっぱり天才だ!!」
「う、ん……」

 返される声は弱々しい。
 イスメトはえも言われぬ不安に駆られ、エストを振り返る。

 少女の目は(うつ)ろで、どこか焦点が定まらない。
 意識が(もう)(ろう)としているように見えた。

 神の力は肉体を通してこそ物質世界に大きな影響を与えられる。
 その本質は神器であろうと護符であろうと変わらない。

 大きな力を願えば願うほど、神力の経由点となる肉体に負荷がかかる。
 今のエストの体は言わば、神力を使いすぎて寝込むイスメトと似たような状態だった。

 少女の体が、カルフの背からずり落ちる。

「エスト――っ!!」

 落ちる。
 咄嗟に伸ばした手は――

 わずかに、届かず。

 見開かれた空色の瞳が、後方へと遠ざかっていく。
 世界の時間が急激に遅くなったように感じた。


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