「これが……旧神、様……?」

 いかにもな祭壇と神像を前に、二人が感嘆の息を漏らしたのも(つか)()

「グルルルル……!」

 荒い息づかいが背後から聞こえた。
 イスメトはすぐさま振り返り、携行していた(やり)を構える。
 その切っ先はプルプルと震えていた。

 低級魔獣、魔狼(ゼレヴ)
 体は犬より一回り大きい程度。
 だが砂漠を行く商人を何人も食い殺してきた、危険な魔獣の一種である。

 英雄になるという馬鹿げた夢を捨てた今でも、未練がましく槍の自主訓練だけは続けている。
 幼い頃から培ってきた技術は(うそ)を吐かない。

 そのはずなのだが――

(……っ、やっぱり、見える)

 歯をむき出し威嚇しながらも、槍を警戒して間合いを保つ魔狼。
 その周囲には魔獣特有のどす黒いオーラが揺らめいている。
 そして、その背には――明らかに人の形をした『何か』が(また)がっていた。

 影のように黒く、不定形で、ぼやけた存在。
 まるで羽虫の大群が人の形を象っ(  かたど  )ているかのようだ。
 イスメトは自分にしか見えないそれを『悪魔』と呼んでいた。

 悪魔の顔には穴がある。
 空虚な穴。吸い込まれるような虚無。
 その穴が、瞳が、イスメトの視線をいつも(くぎ)()けにする。

 ――いやダメだ。アレはただの幻覚。怯むな。惑わされるな。

 イスメトは頭を振り、槍を握り直す。
 見据えるのは魔狼だけ。
 それだけでいいはずだ。

「だぁ――ッ!」

 口元を狙って繰り出した刺突には、確かな手応えが返ってきた。
 さらに踏み込み、切っ先を相手の頭蓋にまで押し込む。
 (あつ)()なく魔狼は動かなくなった。

 魔狼の死と同時に、上に乗る悪魔の姿も()()える。

「や……やった……」

 十六歳の戦士見習いが、低級魔獣に初勝利。
 人に誇れるような戦果ではない。
 しかし、イスメトにとっては確かな前進だ。

 体の緊張が、わずかに緩んだ。

「イスメト、危ない!」

 それが()()かった。
 エストの声にはっとした時には、視界の端で牙が光る。
 骸に(  むくろ  )突き刺さったままの槍を(とつ)()に手放し、イスメトは横手に()退()いた。

「ぐっ――!」

 牙の間合いからは逃れたものの、鋭い爪が肩口をかすめる。
 油断した。奥にもう一匹いたのだ。
 黒い体毛が闇に溶け込み、全く見えていなかった。

「くらえ、神様ぱわーっ!」

 不意に眩い(  まばゆ  )光がエストの掲げた護符から迸っ( ほとばし )た。
 魔狼(ゼレヴ)はその聖なる光に大きく怯む。
 イスメトはその隙に槍を引き抜き、二匹目の魔狼に向けて(とう)(てき)した。

「キャィィン――ッ!」

 槍は正確に魔狼の目を貫く。
 そうして戻った静寂の中、二人分の息づかいだけがその場に残った。

「……えへへ」

 先に笑みをこぼしたのはエストだった。

「すごいよイスメト! さっそく魔獣を倒しちゃった!」
「い、いや……最後のはエストのお陰だって」

 今度は忘れずに槍を引き抜きながら、イスメトはエストのハイタッチに応じる。
 喜びは確かにある。
 一方で、これは自分の望む完璧な勝利ではなかった。

(結局、エストに助けられちゃったな……)

 脳裏をよぎるのは、今もなお目に焼き付く過去の失態だ。

『イスメト逃げて!』

 尻餅をついて動けない少年。迫り来る魔狼。
 その少年を守ろうと魔狼の前に立ち塞がる少女。
 助けが来なければ、きっとそのままエストはあの牙に――

(幻覚も、相変わらずだし……)

 悪魔の幻覚について話すと、戦士達には冗談だろと笑われた。
 ザキールに相談すると、それは心の病だと言われた。
 魔獣に対する恐怖心が、見えるはずのない幻覚を作り出しているのだと。

 あの幻覚が消えない限り、自分は半人前。
 英雄になど絶対になれはしない。
 今ならばもしやと思ったのだが、現実はそう甘くなかった。

「うーん、やっぱり出入り口は無さそうだけど……あっ、ここの壁、崩れてる! 狼さん、この隙間から入って出られなくなっちゃったのかな? ちょっと()(わい)(そう)だね」
「あ、はは……二匹だけで良かったよ……」

 本当ならばエストを守ってあげるべきなのに。
 言うこともやることも、エストには(かな)わないのだから悲しい。

「ねぇねぇイスメト! これが神器かもだよ!」

 エストの指差す先には例の神像が佇む(  たたず  )
 その手には、金色に輝く美しい戦杖が(  せんじょう  )握られていた。

「これが……?」
「やったねイスメト! これで英雄になれるよ!」
「あはは……まだそうと決まったわけじゃ」

 (つえ)に手を伸ばしかけて、イスメトは(ため)()う。

 もしこれが本当に神器なら、もっと()(さわ)しい人間の手に渡るべきではないだろうか。
 低級魔獣を倒せたくらいで喜んで油断するような、こんな劣等生の手にではなく。
 故郷の村には、自分なんかよりも勇敢で優れた戦士が大勢いる。

「……いや、エスト。これは君が大神官様に渡して――」

 振り返ったイスメトは、不意に違和感を覚えた。
 エストと視線が合わない。
 彼女はイスメトでも杖でもなく、部屋の隅を見つめている。

「聞こえる……」
「え?」
「誰かの……声。ほら、あそこから……」

 イスメトは息を()んだ。
 エストの指し示す先には『闇』があった。

(な、んだ? あれも……幻覚?)

 人の形をした闇。壁に背を預け、だらりと脱力している。
 まるで未来を見失った浮浪者や、その成れの果てのようだ。

「……っ!」

 いや、幻覚ではない。実物だ。
 白骨化した人間の死体だ。
 それを上から包むように、闇が滞留している。

 ついに魔獣以外に対しても見えるようになってしまったのか、僕の恐怖心――などとヘコんでいる場合ではどうやらなさそうだった。

「……だいじょうぶ。一人じゃないよ。ボクが……(そば)にいてあげる」
「っ、エスト!?」

 エストは何かに()()かれたように、その死体へ――闇が煙のように立ち上る恐ろしい空間へと一歩また一歩と近づいていく。

【……ズット……テ……タ……】

 雑音にも似た、不可思議な声。
 それは音ではなく思念の類いだったが、イスメトには頭に響く不気味な声としか認識できない。

「……待ってた? ボクらを?」

 そしてそれは、エストも同じだった。

「エ、エスト……?」

 エストが得体のしれない声と会話をしている――
 そう気付いたとき、イスメトの胸は焦燥に()きむしられた。
 鼓動が早鐘を打ち、本能が震え叫ぶ。

 今すぐに、エストを止めろと。

「エスト! ダメだっ、ソイツに(こた)えちゃ――ッ!!」

 それは一瞬のことだった。
 闇が炎のように、あるいは濁流のように吹き上がり、少女を飲み込んだ。

 しかし、間一髪。
 イスメトの手がエストの腕を(つか)んでいた。

「エスト!? しっかり! エストっ……!!」

 引き寄せた彼女の体はだらりともたれかかってくる。
 気絶している。

「い、いったい今のは……なっ!?」

 少女の体を支えながら、イスメトが視線を上げた瞬間。
 闇もまた、その首をもたげた。

 立ち上がるソイツの頭部は天井まで優に届き、うな垂れるようにしてこちらを見つめてくる。
 いつも見る悪魔とは違い、ソレに手足はない。
 強いて例えるなら、人を(まる)()みにできる大きさの――黒い蛇。

「あ……あ、ぁ……」

 恐怖に体が凍り付く。
 迫り来る大蛇の頭部には、やはりあの目が、空虚な穴が(のぞ)いていた。
 闇が、こちらを見ていた。

 ――イッショニ、イコウ。
 ――イッショニ、ナロウ。
 ――ヒトツニ、ナロウ。

 耳鳴りのように頭を駆け巡る声。
 理解不能な状況にイスメトの足が震え出す。
 それでも、もうあの時の二の舞いにだけはなりたくなかった。

「っ、これでも……()らえっ!!」

 イスメトは咄嗟にエストの首から引きちぎった護符を投げつける。
 すると大蛇はザワザワと体を泡立たせ、動きを止めた。

 手の平から確かに伝わる少女の体温。
 それだけが、臆病な少年にわずかな勇気を与えた。

「それで次は……これだ――ッ!」

 怯む大蛇。
 その空虚な瞳を目がけ、イスメトは槍を全力投擲する。

 狙いは正確。踏み込みも完璧。
 幼い頃から培ってきた技術は嘘を吐かない――
 はずだった。

「な……っ!?」

 槍は無慈悲にも目の前の巨体をすり抜け、背後の壁に突き刺さる。
 大蛇は何食わぬ様子でジリジリとこちらへ()()ってくる。

(こいつ……実体が、無い!?)

 もはやパニックだった。

「ぁ、ぅ……うああああぁーっ!!」

 手当たり次第に掴んだ()(れき)の破片を、小石を、砂を、投げつける。
 それらも全て大蛇の体をすり抜けて落ちた。

 肉体を持たない大蛇。
 しかし、もはやただの幻覚とは思えなかった。

「ぁぁ……ぅ、ぁ……」

 着実に近づいてくる死の予感。
 動かない少女を抱き上げ、もう後ずさることしかできない。
 すぐに背中に何かが当たる。

 祭壇だ。

(神、様……)

 イスメトは祭壇に背を預けながらその場にへたり込んだ。

(せめて……せめてエストだけは……)

 きっとエストは勇気づけようと思っただけだ。
 あの日からずっと腐っているバカを放っておけなくて。
 だからこの状況を作ったのも、元を辿(たど)れば自分で。

 また繰り返すのだろうか。
 ずっと変われないのだろうか。
 ただ一人を守りたいという小さな願いすら、自分には叶えることができないのだろうか。

(助けて……っ、ください……!)

 イスメトは柄にもなく神に祈った。
 真に奇跡を信じるでもなく、ただただ悔しさのままに願った。
 そして、その命を振り絞るような切実な思いに――

【――よォ。それは、この俺様に言ったのか?】

 何者かが返答するのを、確かに聞いた。


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