「ぁ……あ、ぁ……」

 少女は死を覚悟した。

 毒液の直撃は免れたものの足に力が入らない。
 駱駝は彼女を振り落とし、とうに逃げ去ってしまった。
 両手に握りしめた手製の護符は、胸の前でぷるぷると震えるだけ。

 ――バカだ、アタシ。

 オアシスの危機にすら駆けつけてくれない国神(ホルス)に祈って何になる。
 こんなことならナイフを取り出すべきだった。
 それで自分の首を切り、ラフラの砂に血を(ささ)げるべきだった。
 そうすればもしかしたら〈砂漠の民〉を守護する(ふる)き神が、最期の願いを聞いてくれたかもしれないのに。

 いや、それもまた希望的観測の過ぎる話か。

「うぅ……っ、おにぃ……っ!」

 昨年死んだ唯一の肉親の顔を思い浮かべ、少女は涙の(にじ)む目を固く閉じた。

「ぅわああああぁぁぁぁ――っ!!」

 その時だった。空から妙な声が降ってきたのは。
 神の声――なわけがない。それにしては間抜けな悲鳴だ。
 屍転蟲(アス・ワウト)と少女の間に、その悲鳴の主はズドンと落ちてきた。

 立ちこめる砂煙の中に薄らと、少女は立ち上がる人影を見る。
 少年、だろうか。
 手には杖らしきものを持っている。

「クハハッ! 今度はちゃんと足で着地できたなァ! 飲み込みが早いのは良いことだ」

 少年はドスの利いた声で一人、笑っている。
 彼の言葉の意味も、空から落ちてきた理由も分からない。
 ただ一つ、理解できたことは――

「安心しろ。こっからは俺の仕事――だッ!」

 奇跡が、起きたことだけだった。

 少年は自身に群がる屍転蟲(アス・ワウト)をその杖で殴り飛ばし、すり潰し、(たた)き伏せていく。
 飛び散る毒を紙一重で避け、(むし)の翅を切り落とし、腹を突き破る。

 赤くギラつく眼光。
 戦いを楽しむような凶悪な笑み。
 豪快なのに洗練された(たい)(さば)き。

 恐ろしい。でもどこか、美しい。

 少年の動きに従って風と砂が舞い、時折、青黒い毒液と緑色の体液とが絵の具のように宙に散る。
 まるで極彩色の宗教画。
 その中で、彼は踊っていた。

■ ■ ■

「じ……()ぬかど思っだ……」

 セトの支配から解放されたイスメトは、力無く砂漠に伏す。
 この時間、砂は恐ろしく熱いはずだが、不思議と(ほお)に触れても気にならない。

【ハッ、情けねェ(やつ)だなァ。毒も攻撃も受けてねェはずだが?】

 そういう問題ではない。
 自分の体が意志に反する動きをする上に、視界の端から端まで恐ろしい蟲の大群で埋め尽くされていたのだ。平静を保てるわけがない。

 しかもセトの動きは良くも悪くも大胆。
 毒液こそ()()く避けるものの、無害な体液に関してはお構いなしだ。
 結果、イスメトの全身は虫の臓物でベトベトである。

 戦っている最中は、それが毒液なのか何なのかすら分からない。
 肌がねっとりと嫌な感触を伝えてくるたび、いつ体が溶け始めるかと気が気ではなかった。

「も……、動けな、ぃ……」

 さらに体の主導権が戻った途端、この吐くほどの疲労感である。
 実際、つい先ほど胃の中身をその辺にぶちまけた。

【やれやれ。こりゃ、ちっとばかし鍛えてやる必要があるな】
(あー……水が飲みたい。むしろ水に飛び込みたい……)

 意識が(もう)(ろう)とし、セトとの念話すら成立しなくなってきた頃――

「ちょ、ちょっと……! 大丈夫!?」

 パサパサと砂を踏む音が近づいてくる。
 それを聞きながら、イスメトは意識を手放した。

 そして次に目が覚めた時には、目の前に布で出来た天井があった。

「う……んん……?」

 ぴちゃぴちゃと。
 頬をくすぐる湿った感触でイスメトは感覚を取り戻す。
 顔のすぐ横で、赤毛の猫がみゃるると鳴いた。

(あれ……僕、どうしたんだ?)
【ぶっ倒れて介抱されてたな】

 セトによると、気絶して三時間ほど()ったらしい。
 となるともう夕方。どうりで空気が涼しいわけだ。
 のっそりと上体を起こす。額から湿った布が落ちた。

「あ、起きた!」

 走り去っていく細身の猫を目で追うと、そこには少女が立っていた。

 長い髪を右サイドでくるりと束ねている。
 猫と同じく赤毛。〈砂漠の民〉としてはごく一般的な髪色だ。
 オアシスではむしろ、イスメトの砂色の髪の方が珍しい。

「あれ? 紫だ」

 しかし、少女はイスメトの髪よりも、瞳の色を見て目を丸くした。
 長い(まつ)()の奥から、気の強そうな翠が(  みどり  )見つめてくる。

「えっ、あ、あの……っ!?」

 少女の顔が急接近し、イスメトは思わず目をそらした。
 同時に、柱と布で構成された簡素な室内が目に入る。
 恐らくここは〈砂漠の民〉が長旅をする際に持ち歩く、簡易テントの中だ。

「アハッ、ごめんね。ただの見間違い! 気にしないで」
「あ、あの……ありがとうございます。介抱、してくれたんですよね?」
「いいって! アタシこそ感謝だよ! マジで死ぬと思ってたから」

 少女は猫を抱き上げながら、快活な笑顔で答える。

「タメ口でいいよ。たぶん同世代でしょ? あたしメルカ」
「イスメト、です……あ、いや。イスメト、だよ」

 安定しない口調に、メルカはまた笑った。

「意外と大人しいタイプでビックリ。てっきり戦闘狂のヤバイ人かと思っちゃった」
「あ、はは……」

 イスメトは笑ってごまかす。
 神殿での一件もある。
 セトのことを不用意に話すのは避けるべきだろう。

【賢明だな】

 セトも同意見のようだった。

「ところで、ここは……?」
「ああ、ごめんごめん。ここはラフラの外れ。無人の小さなオアシスだよ。宿代浮かせたくて、いつも皆ここに泊まるの。やっぱ、町に送った方が良かった?」
「あ、いや……大丈夫」

 ラフラ・オアシスでは神殿兵がイスメトを探し回っている。
 むしろ幸いだった。

「さてっと。それじゃ、さっそくお礼をしなくちゃ」

 メルカはテントの幕を上げる。
 遠目に草を()む駱駝が見えた。
 その背から降ろされたのであろう大量の鞄を(  かばん  )、メルカはテント内に運び入れていく。どうやら彼女の商売道具らしい。

「あ、いや。お礼なんて別に――ィィッ!?」

 言いかけたイスメトの頬を、イスメト自身の指がつまんで(ひね)りあげた。

【ア・ホ・か、オマエは!】
「いででで……っ!」

 セトの仕業だった。

【勘違いすんな。これは厚意じゃねェ。命を救った当然の対価だ。対価は取れるだけ絞り取れって親に習わなかったか?】
「ど、どんな親ですか……!」

 イスメトはヒリヒリと痛む頬をさする。
 幸い、メルカがこちらの一人珍問答に気付いた様子はなかった。

「よいしょっと! ウチにあるのはこのくらいなんだけど……」
「な、なんか悪いな……」
「アハッ、何言ってるの! 命救っといてお代はタダとか、そっちの方が怖いから!」

 さすがは常に危険と隣り合わせの行商人。
 畑を耕すだけの小作人とは生きる心構えが違う。

【ソラ見ろ。これが普通の感性だ】

 最初から報酬目当てだったセトに言われると、少しモヤっとするが。

(それで……何か欲しいものがあるんですか、セト様)
【敬語も敬称もやめろ。俺を(たた)えたい気持ちは分かるが、依代と神は対等な関係であるべきだ】
(そ、そう……なの?)

 神と自分が対等などとは到底思えないが、他でもない神の(おぼ)()しだ。素直に従っておく。

「【これがいい】」
「え……? こ、こんなのでいいの?」

 セトがイスメトの指で差したのは、壊れたシストルムだった。
 U字型の枠に横棒を刺し、金属製の輪を複数ぶら下げた、振って音を鳴らすタイプの楽器である。
 どうやらこれには柄と枠の部分しか残っていないようだが。

「こ、こんなの、蒐集趣( しゅうしゅう  )味の偏屈ジジイくらいしか買わないわよ? 他のにしといたら? ほら、こっちにちゃんと音が出るやつが――」
「【いや、これがいい】」
「そ、そう……」

 メルカは明らかにソワソワしていた。

(これは……?)
【〈神合石(ネレクトラム)〉。希少な天然合金だ。神器の素材に使える】
(えっ、神器!?)

 イスメトは声をなんとか飲み込んだ。

【いずれ必要になる。これだけでは心許な(  こころもと  )いが】
(そ、そんな簡単に作れるの……?)
【良い職人を雇うのが最善ではあるが、モノさえあれば神力を宿すだけでそれは神器となる】

 皆が血眼(ちまなこ)になって探す旧神様の神器は、どうやら一点物ではなかったらしい。
 ちなみに例の遺跡にあった黄金の杖はただの装飾品で、神器ではないとセトは言う。

(なら、セトが使ってるあれは……?)
【〈支配の杖(ウアス)〉か? アレは神力を扱いやすく集めたものだ。俺にしか振るえん。だが神器ならニンゲンでも扱える】
(人間って……も、もしかして、僕?)
【他に誰がいる。今のやり方じゃ、いずれ限界がくる。オマエには早いとこ自立してもらうぞ】

 最後の言葉には、どこか圧を感じた。
 今のお前はただのお荷物。そう言われているような。

「はぁ……君、いったい何者? それ、高価だって知ってたの?」
「えっ、えっと……まあ」

 思ったより高く付いた――とメルカの顔には書いてあった。
 なんだか自分ががめつい人間に見られているようで、イスメトは胃を痛める。
 が、そんな依代の心情などお構いなしにセトは畳み掛けた。

「【同じ材質で、もっとちゃんとした品はないか? できれば武器がいい】」
「え、うぅーん……武器は~……」

 メルカはしばらく荷物をごそごそと(あさ)っていたが、やがて何かを思い出したかのようにバッと顔を上げた。

「そうだ! 神合石(ネレクトラム)製のナイフなら仲間が持ってたはず。それなら、条件付きで横流ししてあげてもいいわよ」
「【条件……?】」

 続いてメルカから提示された条件を、セトは快諾することになる。
 そのせいで、イスメトはさらに胃を痛める結果となった。

「ね、イスメト君。アタシらに雇われない?」


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