(体が……動かな、い……)

 ズシン、ズシン、と響く蹄の音。
 こちらへ近づいて来ている。
 緩慢な足取りだ。きっとヌシは先の攻撃で相当なダメージを受けている。

 ――でも、殺せなかった。僕は賭けに負けた。

 頭上ではセトとアポピスの熾烈(しれつ)な戦いが繰り広げられている。
 まともに目で追えない。次元が違うとはまさにこのことか。

 そんな超常的な世界を視界に収めながら、一方でイスメトはそこから自分自身を見下ろしているような感覚になった。

 周囲に転がる、無数の古びた武器。
 きっとその数だけ誰かの死体もここに転がった。
 その中にきっと父もいて。

 コイツは一体、今までに何人の戦士を殺してきたのだろう。

(僕も……死ぬ、のか……?)

 悔しい。けれど、どこか満足感もあった。

 今の自分にできることはやった。
 死力を尽くした。
 それだけは胸を張って言える。

 だから父さん、褒めてくれるといいな。

(あ、れ……?)

 諦めと達観がない交ぜになった思考の端で、ふと何かがチラついた。
 視界の脇で何かが揺れている。
 赤い布だ。随分と汚い。

 白い糸で刺繍(ししゆう)がしてある。
 下手クソな文字。

「――っ!!」

 布は槍の先端に結びつけられている。
 己の肩を貫いた、その槍に。

『神兵さんの、センショーキガン? なんだって!』
『そうか! じゃあこれがあれば百万人力だな!』

 イスメトは槍を(つか)んだ。
 歯を食いしばり、肩から力尽くで引き抜く。
 血が吹き出た。肩からも、口からも。

 だがそんなことは歯牙にもかけず、イスメトはその槍を抱きしめた。

「父さん……っ、本当に……っ!!」

 塔の番人をしてくれてたんだ。
 こんな姿になってまで。

(どうせ、このままじゃ死ぬ……)

 父の槍を支えに、立ち上がる。ふらつく足を踏みしめる。
 さっきまで(ひど)く寒かったのに、不思議だ。
 この槍を握るとなぜだか体が熱くなる。力が湧く。まるで神器を握るかのように。

「なら……最期まで……」

 イスメトは地を蹴る。
 口はほとんど無意識に、セトに教わった呪文を唱えていた。

 一度しか打てない?
 それはさ、セト。僕の体が壊れてしまうからだろう?
 でも、元より死ぬ気なら――

 もう一回くらい、使えると思うんだ。

()()く――ッッ!!)

 少年の体に再び神の力が宿る。

 しかし、神器は少年の(はる)か後方に転がったままだった。
 にも関わらず、湧き上がる神力は少年の握る槍へと()()がり、その刀身に加護を与える。
 そして目の前のバケモノに、最期の一撃を()らわせた。

 それは、本来ならばあり得ないはずの現象だった。

【な――】

 少年の特攻を見た神は絶句した。

 何度も念を押したはずだ。
 二度目は無い。今のオマエには過ぎたる力だと。
 もし二度目を打つときは、良くて相打ち。勝っても負けても依代の体は吹き飛んで消える。

 そんな無謀な賭けを。あの臆病なガキがやった。

【クッ……ククク、クハハハハッ!!】

 しかも、そのガキの肉体が滅んだ感覚はない。
 もし滅んでいるなら、自分の精神体が今もここに存在する理由を説明できない。

【これだからニンゲンは……面白いッ!】

 セトの四肢に巻き付いていたアポピスの体がガクガクと震え出す。
 その精神体は徐々に崩壊を始めていた。
 バケモノに宿る魂の( ほんたい )方に余裕がなくなった証拠だ。

「ピギィィィァアァァァァア――ッ!!」

 やがて(しし)顔のバケモノは断末魔の叫びを上げる。
 その口からはビチビチと大量の血と臓物、そして闇が吐き出された。

【おっとォ! ついに出たなチキン野郎ッ!!】

 セトは、バケモノの体からたまらず逃げだそうと飛び出したアポピスの本体――小さな蛇の形をしたソイツを空中で掌握する。

【これで本当の――】

 そして、バリバリと漏電するように迸る( ほとばし )神力を全身に(まと)い、疾風となって降下した。

(しま)いだァァァ――ッ!!】

 石の床に(たた)き付けられた神の鉄拳。
 その内側で、闇の化身は神力に焼かれ、(ちり)一つ残さず消え去った。

「うっ……ごほっ」

 その近くで、イスメトは床に伏せながら血を吐き出す。
 生暖かい生命の証を手の平に受け、目を丸くした。

(あ、れ……体が、ある……)
【ククク、そのようだな】

 背後にセトの気配を感じた。
 力を振り絞り(あお)()けになると、相変わらずの凶悪な笑みが視界に入る。
 神にこの表現が正しいかは分からないが、セトは五体満足で傷一つ負っていないように見えた。

 心底、ほっとした。

【悪運の(つえ)(やつ)だ。偶然抜いたその槍が神合石(ネレクトラム)製でなきゃ、今ごろ体が爆散してたところだぜ】

 不意にピシリッ、と渇いた音がした。
 全ての役目を終えたとばかりに、イスメトの手に握られた槍の先がひび割れていく。

【しかも、その槍がダメージの大半を肩代わりしたらしい。普通ならありえねェ話と笑うところだが……その槍を見て納得したぜ】

 イスメトは槍を持ち上げる。
 巻かれた布がするりと解けて、胸の上に落ちた。

【どうやらここには本当にあったようだな。一人の戦士の魂が宿った武器――()()がよ】

 そして槍の穂先は、粉々に砕け散った。

『もしイスメトが立派な戦士になれたら――』

 キラキラと光るその破片の中に、イスメトは懐かしい笑顔を見た気がした。

『父さんの仕事を手伝いに来てくれ!』

 イスメトの(ほお)を静かに熱い涙が流れ落ちる。
 こうして少年と父親の約束は、八年越しに果たされた。

【タタカウ……ニンゲン……タタカ、ウ……】

 ふと消え入りそうな声が、イスメトの頭の隅をひっかく。
 セトの声ではない。これは、あの魔獣の声だ。

【立てるか小僧】
「……っ、なんとか」
【なら、お前がとどめを刺せ。額にぶち込みゃ()(すが)に死ぬだろう】

 驚くことに、魔獣はまだ息絶えていなかった。
 イスメトはセトに手渡された神器を(つえ)にして魔獣に近づく。

 混沌(こんとん)を吐き出したその体は随分と小さくなっていた。
 姿形も変わっている。
 長い鼻はそのままに口元の牙はなくなり、耳は兎の( うさぎ )ように長く末広がりの形状だ。

 猪には見えない。
 見たことがない動物だった。
 これが混沌に()()かれる前の、本来の姿ということだろう。

 しかし、その小さな頭部にだけはまだ、闇のモヤが小火(ぼや)のようにチロチロと揺れている。

「これで……終わり――ッ!!」

 イスメトは一切の躊躇な(  ちゅうちょ  )く、その額に神器の切っ先を(たた)()んだ。
 闇を浄化すべく、神器は赤く光を放つ。
 その瞬間。イスメトは神器を介して魔獣の魂と一時的に(つな)がった。

「――っ!?」

 まるで白昼夢を見るように。
 頭に次々と浮かび上がる、不思議な情景の数々。
 それは、かつて『聖なる獣』と呼ばれた彼らの、長い長い戦いの記憶だった。


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