【なンだ、オマエの力は既に空じゃナいか】

 闇の中で、セトは自身の半身に語りかけられる。

【なラば、こうなルことは容易に予想でキたはず。オレから器を奪ったとコろで結果は変ワらぬというノに……ナぜ、これほどまデ無意味に、最後の力を使い果たシたのか。甚だ(  はなは  )疑問ダ】
【ハッ……今のが無意味な行動に、オマエには見えたってワケか】

 混沌のとぐろが精神体を締め付け、食い込んでいく。
 存在を侵され、セトは小さく(うめ)いた。
 その体は既に細かな光の粒子となって崩れ始めている。

【まァいい。どノみち、オマエと一つにナれば分かルこと――】
【いいや、オマエにゃ分からんさ】

 それでも神は、不敵に(わら)った。

【永遠にな】
【……ソれは侮辱と捉えタぞ。愚かナ影よ】

 ぶくぶくと膨れ上がった闇が収束を始める。
 それは苦しみ(もだ)えるように泡立ちながら、少しずつ形を成していった。

 闇の空間から最初に生え出たのは腕。
 そのまま()いずるようにして現れた馬面の頭部は、イスメトにも見覚えのある長い立て耳をそなえている。

「セ、ト……?」

 地下神殿の中で狭苦しそうに背を曲げながら起き上がる異形。
 ギラつく赤い眼光がこちらへ向いたかと思うと、黒く巨大な腕がイスメト達の上に影を落とした。

 その手に包み込まれそうになった時。
 イスメトの握る神器が光の力場を展開し、バチンッとその指を弾いた。

【結界か……無駄な足掻(あが)きを】

 自分たちを守るようにして現れた赤い光の結界。
 それに弾かれる異形の手。
 その二つが何を意味するのか、イスメトは嫌でも理解するしかなかった。

 あの手に捕まってはいけない。
 あれはもう、自分の知るセトではない。

「イ、イスメト!? あ、あれ何!? どうなってるの!?」
「今は走って!!」

 イスメトは震える少女の手を掴み、神殿の出口へと走り出す。
 その背後を付け狙うのは無数の黒い蛇。
 そして、セトだったモノの巨大な腕。

「ぐ……っ!!」

 さらに全身には砂の粒子が突き刺さる。
 入り口から吹き込む向かい風が、行く手を妨害しているのだ。
 それでも、神器を盾にとにかく足を進めることに集中した。

 記憶が正しければ、肉体を持たない神は神殿から離れられない。だからこそ、初めて出会った時のセトは依代を求めていたし、アポピスもまたエストに宿って外に出ようとしたのだ。

 アレがセトと同一のものなら、いくら巨大でもこの神殿からは出られないはず。

 神器による守護が消えてしまう前に、エストを連れて外に出る。
 そうすれば、アレは宿る器を失う。

【なるほど。それが狙いで小娘を――我ながら()(ざか)しい考えだ】

 少年の狙いに気付いた神は、誰に言うでもなく独りごちる。
 このために愚かな半身は、最後の力を神器に宿してニンゲン達を守ることに徹したわけだ。

【……だが、一つ誤算があったようだな】

 少年達が外へと通じる最後の階段にさしかかる。
 そこで神はぱたりと追跡をやめた。

 なにも彼らを無理に追う必要はない。
 あの神子を逃すのは少し惜しいが、肉体ならばもう一つあるのだから。

「おお、神よ……! 私を器に選んで下さるのですね!」

 神の前に跪く( ひざまず )男。
 その体を握りつぶせるほどに巨大な手の平が、男の上へ(おお)(かぶ)さる。

【――願え。我はこの世を呪い、()らう、破壊の化身】
「ええ……ええ! 存じております、我らが主よ!」

 男は感極まった声で、神に願った。

「私は願う! この世を形成するすべての秩序の終焉と(  しゅうえん  )――救済を!」
 
 
■ ■ ■
 
 
「カルフ!」

 地下神殿から飛び出したイスメトは、砂の山に呼びかける。
 すぐさま主人の声に反応した獣が地中から姿を現した。
 その小さな体は、砂漠から吸収した神力を用いて巨大化し、主の元へと駆けつける。

「うわわっ!? カ、魔猪(カンゼル)だよイスメト!?」
「大丈夫、友達だから」

 エストは最初こそ悲鳴を上げたが、躊躇い( ためら  )なくその背に飛び乗るイスメトに手を引かれ、後に続いた。

 カルフが後ろ足で地を蹴ったその直後。
 (ごう)(おん)が大地と大気を同時に震わせる。
 疾走する神獣の背後では砂山が――地下神殿が崩落していく。

 吹き荒れるのは砂漠の風。
 いつもならばイスメト達を導いてくれるはずのそれが、行く手を遮るようにカルフの体を翻弄し、砂を巻き上げてその足を絡め取ろうとうごめく。

 砂漠は今や、敵だった。

「ピギュルル……!」

 小高い砂の丘を登り切ったところで、カルフは滑り込むように突っ伏す。
 向かい風に力を消耗したのだろう。
 長い鼻をヒクヒクと動かし、神力を求めて砂を食べ始めている。

 幸い、すでに砂嵐の包囲は抜けていた。
 カルフの背から一旦降りたイスメトは、そこで初めて背後を振り返る。

「あ……あぁ……」

 言葉が出なかった。

 地下神殿を崩落させながら立ち上がった巨大な影。
 砂漠から上半身だけを出したソレは、砂嵐を衣のようにまとい、邪悪に流動する闇を周囲にまき散らしている。

 大量の(ふん)(じん)により天は隠され、辺りは日中とは思えないほどに薄暗かった。

 時折その闇を切り裂くのは、砂塵から生じた稲光。
 その赤光にはもはや(こん)(とん)を払う聖なる力などなく、気ままにそこらの岩山へ落ちては破壊の限りを尽くすのみ。

「セ……ト……」

 少年の呼びかけに、応える者はない。
 嵐の化身は振り返ることもなく、ラフラのオアシスに背を向けてゆっくりと砂漠を進み始めた。

「助かった……の……?」

 エストの不安げな呟き(  つぶや )
 イスメトは首を横に振る。

 あの方角には大河(ナイル)がある。
 セトは川沿いの都市部に――ホルスの国に向かっているのだ。
 混沌に取り込まれかけた時に見た幻覚が、その予想を後押しする。

 あれは恐らくセトの記憶。その断片。
 ならば、あの時に抱いた感情も――恐らくは、セトのもの。

 混沌が理性を損なわせ、内なる願望を破壊的な方法で発露させる存在であるならば――混沌化したセトは真っ先にホルスを殺しに行く。
 あるいは、ホルスの大切なものを壊しに行く。
 それが今なすべきことであるか(いな)かに関わらず。

 そんな気がした。


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