「――くそッ!!」

 イスメトは地面に膝をついた。

「くそ……くそくそくそッ!! 何やってるんだ僕は! これじゃみすみす、あいつにセトを差し出したようなものじゃないか!」

 己の不甲斐なさに目の前が真っ暗になる。
 セトが弱って眠りについたなら、棺の結界も緩んで当然だ。
 なぜそんな単純なことにさえ気付けなかったのか。

 安易にあの神殿へ近付きさえしなければ。
 いや、そもそも。自分が下手を打ってセトに傷を負わせるような事態を招かなければ、こんなことにはならなかった。

「イスメト!!」

 ガクガクと肩を揺さぶられ、イスメトははっと我に返る。
 エストが泣きそうな顔でこちらを見ていた。

「もう、やめてよ……手が、壊れちゃうよ」

 言われて、右の拳から血がしたたり落ちていることに気付く。
 無意識に近場の岩を何度も殴りつけていたらしかった。
 その痛みすら、ほとんど感じない。

 感じる余裕がない。

「エスト……」

 少女の存在を思い出したことで、感情がいくらか冷却される。

 エストは目を覚ましたばかりだ。何も事情を知らない。
 僕が取り乱してどうする。
 説明しなければ。そして彼女を少しでも安心させて、それから――

 ――それから?
 どうするというのだ。
 セトはもういないのに。

「僕は、ただ……最初は君を……助けたかっただけ、で……」

 思いとは裏腹に、まとまらない思考。
 神に許しを請うように、イスメトは砂の大地に蹲っ( うずくま )た。

「なんで、こんな……っ、違う! 僕はこんなこと、願ってなんか――ッ!!」

 エストを救いたい。
 その願いは確かに、セトに体を貸す条件だった。
 エストを早く救い出していつもの日常に戻りたい――そう考えたことだって一度や二度じゃない。

 でもそれは、セトの存在と引き換えてまで叶えられるべき願いではない。絶対に、だ。他に手段があるならば、何ヶ月、何年、何十年かかろうとも、そちらを選んだ。

「僕が、弱いから……」

 努力はした。本当だ。
 これでもかというくらい自分を追い詰めて、あの背中を必死に追いかけた。

「いつも僕が、足を引っ張って……」

 それでも届くはずなどなかった。分かっていた。
 自分は最初から、何かを成し遂げられるような人間ではないと、自分が一番よく分かっていた。

 僕はセトとは、何もかもが違った。

「僕のせいなんだッ! 僕を(かば)ってあいつは大()()して――そのせいで力を失って、だからあんなことに……!!」

 セトがいてくれたから、変わったように見えただけで。
 本質は何も変わっていなかった。
 これは報いだ。あいつの隣に立とうだなんて(うぬ)()れた、その報いなのだ。

「もっと、ちゃんと話せば良かった! 僕なんかが依代でいいのかって!! 本当はずっと……っ、それを聞きたかったのに!!」

 握りしめた拳の上に、生ぬるい水滴が落ちてくる。

「またあの時みたいに『お前じゃなくてもいい』って……っ、そう言われるのが、怖くて……」

 オベリスクに光を灯しても、エストが目を覚まさなかったとき。
 焦りと不安の裏側で、どこかほっとしていた。
 まだセトの依代でいられると安堵する、最低な自分がいた。

 本当は自分が一番知っていた。
 セトの依代に相応しい人間は、少なくとも僕じゃない。

 その証拠に、この(てい)たらく。
 セトがいなくなった途端に何もできない。
 変わっていないのだ。セトと出会う前から、何も――

「イスメト。だいじょうぶ」

 ふと、手にぬくもりを感じた。
 砂に湿った跡を残していく雫を(  しずく  )幾つも見送って、少しだけ頭を持ち上げる。
 乾いた砂を握りしめるだけの手に、少女の手が重ねられている。

「キミは神様に愛されてる。キミの中に、神様の温かい光を感じるもの」

 握った少年の手を胸の前まで持ち上げて、少女は(ほほ)()んだ。

「少しだけ思い出したんだ、キミの(ぼう)(けん)(たん)。たぶん……話してくれた、よね?」
「え……あ……」

 それは、地下神殿での会話を指しているのだろうか。アポピスに取り()かれていても少女の心はどこかにあって、あの会話をぼんやりと聞いていたのかもしれない。

「セトさんも、きっと、キミのことが気に入ってるから一緒にいるんだよ。ボクにはその気持ちが分かる。だってキミは優しくて、マジメで、ちょっぴり卑屈だけど……でも、いつだって誰よりも頑張ってる、すごい人だから」

 少女の体が、(かす)かに震えていることに気付く。
 ああ、そうか。彼女も怖いのだ。

 真っ暗な空の下に急に放り出されて。
 分からないことばかりで。
 頼れる人間は、目の前でいじけているこんな自分だけで。

「キミはキミが思ってる以上に、大した男なんだよ? ボクはずっと見てたから、分かるんだ」
「そんなこと、ない……僕は今も……」
「人はね、みんな誰かの鏡なんだよ、イスメト」

 エストは所在なく垂れるイスメトのもう一方の手も(つか)み、自分の手で包むようにして重ね合わせる。

「自分の中ばかり見ていても、キミの本当の姿は見えないんだ。だからボクを見て。ジタを、アッサイを、セトさんを――みんなの中に映るキミを、もっと見てほしいんだ」

 宝石のように透き通った空色の瞳が、まっすぐ見つめてくる。
 本当の空が真っ暗になってしまっても、その輝きは(いろ)()せない。

「ボクはこう思う。神様もきっと、キミの可能性を信じてるんだ。だから、キミに死んで欲しくなかった。大きな意味とか、理屈とかじゃなくて……本当に、ただそれだけだったんじゃないかな」

 心臓が大きく脈打った。
 死んで欲しくない。ただそれだけ――?

「今だってそう。セトさんはきっと、キミに生き残って何かをしてほしいんだよ。それができるって、信じてるんだ」

 瞬間。視界が赤い光に包まれる。
 イスメトは驚き、光の発生源を探して目を落とした。

(これは……!)

 エストの手が、光っている。
 いや、違う。光っているのは自分の手だ。
 エストの手に包まれた、自分の手が光っているのだ。

「イスメト……信じる力が、神様の力になるんだよ」

 少女がその光に気付いた様子はない。
 当然だ。その光は神と(つな)がっていた彼にしか見ることができないもの。

 左手の甲に刻まれた、神の刻印。
 失われたはずのその輝きが、確かな意志を帯びて訴えかけてくる。

 ――立ち上がれ、と。

「キミも信じなきゃ。キミの神様を。そして――キミ自身を」
「僕、自身を……」

 必死に記憶を辿る。
 地下神殿に踏み入れた時、この刻印は確かに消えたままだった。
 ならばいつ刻まれたのか。

『俺には、オマエの願いが見えている』

 答えは一つしかない。セトが目覚めた時だ。
 セトはアポピスと戦いながら、その神力の一部を神器に込めた。
 その一方で、イスメトの肉体にも力を注ぎ込んでいたのだとしたら説明がつく。

『どうしても(かな)えたいってんなら、テメェで足掻(あが)くことだな』

 セトはきっと、自分がアポピスに()まれることを予期していた。(やつ)に対抗できるだけの力がまだ戻っていなかったに違いない。

 だから、最後の力を僕に――託した。

「……っ!」

 不意に視界がぼやける。

 ああ、そうか。
 だからお前は、当然のように僕を庇ってくれたのか。
 だからお前は、相棒失格って言ったのか。
 僕は自分を責めることで、お前から向けられる信頼にすら、泥を塗っていたのか。

 お前は僕を、とっくに認めて――

「あ、はは……ほんとに、ウジ虫だな僕は」

 僕を認めていなかったのは、セトではなくて。
 僕自身だった。

「ありがとう……エスト」

 埃を払い、立ち上がる。
 そうだ、足掻かなければならない。
 胸の内にいつからか宿った、もう一つの願いを叶えたいなら。

「僕、行くよ。セトを――助けなきゃ!」


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