混沌化したセトをどうすれば元に戻せるのか。
 思いつく方法はあるが確証はない。実行できる保証もない。
 だが、完璧な作戦を思いつくまで話し合っている時間など、もっとない。

「イスメト! ありったけの護符を集めてきたよ!」
「ありがとう! 貸して!」

 イスメトはオアシスまで戻ってきていた。
 大神殿から駆け出てくるエストから護符の詰まった袋を受け取り、すぐさまカルフに縛り付ける。

「エ、エスト!? なぜここに――な、何事だ!?」

 幸いだったのは、大神官が敵ではなかったことだ。
 エストを見た時の大神官の顔は、我が子を心配する父親のそれに違いなかった。

「お父様! 外を見て! セトさんが大変なんだ!!」
「よ、依代殿……どういうことだね?」
「影の教団の使者に、セトを奪われました。多分、今セトはそいつに操られています」
 
 大神官は最初こそ困惑していたが、神殿の外に出るなり事態の重大さに気付いたようだった。

「セトを止めるには、今の依代を殺すしかありません。その(ため)にはまず、あの混沌が渦巻く砂嵐の中に入らないといけない――お力を貸していただけませんか」

 こうして大神官の了承のもと、浄化の力がありそうなホルスの護符を片っ端から集めてきたわけだ。
 これがどれほど役立つかは不明だが、できる限りの準備はしておくべきだ。

「イスメト君! 皆に緊急配備につくよう伝えたわ!」

 カルフに護符を結び終えたところで、(らく)()から飛び下りるメルカの姿が視界に入る。
 大神殿へ急ぐ途中、偶然会った彼女には戦士達への伝令を頼んでおいた。
 セトが混沌に()ちた以上、オアシスもきっと無事では済まない。戦士達にはセトが作った緊急時の作戦通りに動いてもらう。

「ありがとう、メルカ!」
「他にアタシにできることある?」

 イスメトは思案する。神の力は人々の信仰によって高まる。
 ならば、戦えない人々にやってもらうべきことは――

「セトは今、すごく弱ってる……だから、皆の祈りが必要だ。そのことを、できるだけたくさんの人に伝えてほしい」
「分かったわ」

 メルカは二つ返事で了承した後、何かを考えるように顎に手を当てていた。
 そんなメルカと別れたわずか数分後。
 暗い空を不安げに眺める人々の間に、こんな話が広まることになる。

『国神ホルスは、我らが守護神に呪詛(じゅそ)をかけて呪い殺そうとしている。そのため砂漠は闇に覆われてしまった。憎きホルスから守護神を守るため、〈砂漠の民〉は総力をあげてオベリスクに祈りを(ささ)げよ』

 存分に他意の含まれたその話は、メルカが脚色したものか、はたまた例の二神の対決を見ていた誰かが尾ひれをつけたものか。

 いずれにせよホルスの存在がその話題性を急速に高め、イスメトの要請は瞬く間にオアシス全体へと広がっていくことになる。
 分かりやすい敵がいたほうが、人間、団結するものである。

「イスメト! ボクも行くよ!」

 メルカと別れたすぐ後。
 いざ死地へ向かわんとカルフに(また)がるイスメトの背に、エストがしがみついてきた。

「ええっ!? だ、駄目だ! 危険すぎる!」
「でもイスメト、ホルス神の護符の使い方、分かるの? まさか魔獣に投げつけて使おうとか思ってない?」

 ジトッと()め上げてくる瞳に、イスメトは返す言葉を失う。
 図星だった。

「ボクは護符の力を引き出す呪文を全部覚えてる! ボクがいないと、こんなのぜんぶ宝の持ち腐れなんだからね!」
「で、でも! 死ぬかも知れないんだよ!?」
「それはイスメトだって同じだろー!?」

 そんな二人の押し問答を止めたのは、意外な人物だった。

「連れて行ってやってはくれぬか、依代殿」
「……! 大神官様!」

 思わぬ(すけ)()にエストすら目を瞬か( しばたた )せて固まっている。

「その子には天性の才がある。()()としても……書記としても」

 大神官はカルフの横に歩み寄ると、静かな目を娘に向けた。

「そしてその才は、こういう時のために天から貸し与えられたものなのだと……今回のことで私は思い知らされた」
「お父様……」

 その瞳の(せい)(ひつ)さは、きっと、覚悟から生まれるものだった。

「……すまなかったな、エスト。お前はお前の思うように、好きなことをやりなさい」
「……! はい!」

 エスト本人のみならず、その父親にまでこう言われては()()に断ることもできない。
 実際、彼女が来てくれれば心強いし、手札は一つでも多い方がいい。
 しかし、問題はそこではないのだ。

「本当に、いいの? 僕じゃ君を……守り切れないかもしれないのに」

 少女はただ、いつも通りの笑顔で笑うだけだった。
 父親に対しても。少年に対しても。

「だいじょうぶ! ボクはそんなことでキミを嫌いになったりしないから!」

 この笑顔に、いつだって少年は背中を押されてきた。
 戦うことは、失うリスクを背負うこと。
 そしてそれが、願いを叶えるための唯一の手段だ。

 イスメトも覚悟を固める時だった。

「――分かった。一緒に来てくれ!」
「うん!」

 そうして二人と一匹が大神殿を後にし、町の簡素な門を通り抜けようとした時。
 雷よりも重く激しい(ごう)(おん)が、大地を揺るがせた。

ਈਗਵ੬ਞਜ਼ਔਪਖ਼ਓਰਆੴ――!!】

 瞬間、外に出ていた誰もが強風にあおられ地に倒れる。
 その突風は砂漠の表面をまるで生き物のように(まく)れ上がらせ、大量の砂をオアシスになだれ込ませていく。

 視界一面に広がる砂煙。

 それは人々の営みを(あざ)(わら)うかのように、一瞬にしてすべての景色を黄土色に塗り替えた。

「――んぐっ!?」

 姿勢を低くしたカルフの背にしがみつき、イスメトは首巻き布で口元を覆う。
 全身に刺さる砂粒の痛みに目を開くこともままならない。
 だが幸い、風は一過性のものだった。

 問題は、その風がやって来た方角である。

「! あれは、まさか――!」

 顔を上げたイスメトは、巨大な砂嵐の中で大きく揺れ動く荒神(すさがみ)の姿を目の当たりにする。
 黒い巨体の周辺には、琥珀色に輝く光の輪がいくつも浮かんでいた。

 間違いない。あれは神力。

「ホルスだ……ホルスがセトと戦ってる!!」


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