少女の体が、カルフの背からずり落ちる。
 だが、その姿がイスメトの視界から消えることはなかった。
 エストを捕まえようと背後を振り返ったイスメトは、さらに思いも寄らなかった状況に気付くことになる。

 今まで眼前の敵ばかりで、ろくに後ろを見ていなかった。
 だからこの瞬間まで、彼の接近に気付いてすらいなかった。

「あァッぶねぇ!? おまッ、俺がいなかったらどうするつもりだったんだバカ野郎ッ!!」
「ジ、ジタ――ッ!?」

 カルフと同様に、巨大化した神獣に(また)がる黒髪の少年。
 それがいつの間にか、すぐ後ろをついて走っていた。
 その片腕には、イスメト同様に目を丸くしている少女がしっかりと抱え込まれている。

「ジタ! キミも来てくれたんだね!」
「うっせぇ男女!( おとこおんな ) とっととテメェでしがみつけ! 腕が死ぬ!」

 背中での騒動に気付いてかカルフがわずかに減速し、ジタの繰る神獣が横に並んだ。
 その間にエストはなんとかジタの後ろに回ることができたようである。

「ジタ! ()()は!?」
「治った!」
(うそ)つけよ! なんでここに!?」

 有事とは言え、テセフ村の戦士達は療養中。
 そのためイスメトはあえて声をかけていなかった。
 もちろんジタにもだ。

「うっせぇ! お前にばっか良いカッコさせねェってことだよ優等生! 守護神がピンチって皆が騒いでんのに、〈神の戦士(ペセジェト)〉の俺達が出ないでどうすんだ!!」
「俺達、って……」

 イスメトはさらに後方へと視線を巡らせる。
 ジタだけではない。数十頭の神獣が、同様に戦士を乗せて走っていた。
 その中には、上半身に包帯を巻いたアッサイの姿もある。

「相手が神だろうが、原初の闇だろうが――恐るるに足らず!」

 アッサイは怪我の存在など一切感じさせない気迫で、同胞達に呼びかける。

「俺に続けぇぇッ!! 魔獣どもから、我らが神を取り戻すのだァァァ――ッ!!」
「オオオオォォォ――ッ!!」

 戦士達の()(たけ)びが、イスメトの背中を押す。
 先ほどから魔獣がばらけ、あからさまに密度を減らしていたのは、どうやらエストの神術による恩恵だけではなかったようだ。

「なんだか知んねーけど、途中から神獣どもの足が速くなった! これで俺達も加勢できる! だからテメェは、このまま一人で突っ切りやがれ!!」

 ジタの発言にイスメトははっとする。
 先ほどカルフに神術をかけた際に、神力が砂を伝って四方へと広がったのは――
 皆が、後ろにいたから。

「……っ! ありがとう!!」
「バーカ! お前の(ため)じゃねぇし!」

 ジタはニッと白い歯を見せて、神獣の進路をイスメトからずらした。

「ホントはお前ら二人だけで楽しそうなことしてっから、後ろから刺してやろうと思っただけだっつーのッ!」
「イスメトー! 頑張れぇぇぇーっ!!」

 親友の悪戯っぽい笑みも、拳を振り上げる少女の姿も、すぐに後方へと流れ去る。
 イスメトは口元だけで笑った。

「加速だ、カルフッ!!」
「ピギュルアァァ――ッ!!」

 幼馴染(おさななじ)みたちの応援を背に、意識を切り替える。
 セトの足下はもう目と鼻の先だ。
 前方から押し寄せる魔獣も、いっそう強まる暴風も、すべて神器で切り払いながら、イスメトは神の砂嵐を走り抜けていく。

 しかし、いかに暴嵐神が血を分けた神獣といえど、その先の領域に()()入れることは(かな)わなかった。

「――うあッ!?」

 突如として全身を襲う浮遊感。
 イスメトはカルフごと空中へと投げ出される。
 地面から()()がされたカルフの体は、瞬く間に小さく(しぼ)んでいった。

(なんて風だッ!!)

 これが神という存在なのか。
 ぎりぎりの綱渡りを終え、あと一歩のところまで来た人間すら突き放す。冷徹にして大いなる存在。運命。

 だが、たとえそうだとしても。
 この足を止める理由にはならない。

(――まだだ。まだ、何か打てる手があるはず……!)

 上空に巻き上げられながらも、イスメトは思考を止めていなかった。
 まず最優先すべきは意識を保つこと。
 次いで、いずれ上昇から落下へと転じるであろうこの状況をどうするかだ。

 ここは砂漠の上。
 《上昇気流(アク・アエリオ)》を使えば恐らく即死は免れる。
 だがそうすると、全力の奥の手を放つ神力が不足する。

 死ねば、無。
 生き残れば、あるいは。

(アレを当てずに死ぬくらいなら、半端でも生き残る方に――)

 その時、天高く吹き飛ばされたイスメトの眼下に、黒く巨大な神の頭部が現れた。

 燃えるように赤い、闇の裂け目。恐らくは荒神セトの目。
 それはギョロギョロと小刻みに動いて、何かを追っているように見えた。
 こちらのことは眼中にないようだった。

(ここだ)

 直感した。
 砂漠の風は、最後の最後で味方をしてくれたらしい。

 豪風に何度も奪われそうになりながらも、決して手離さなかった神器。その刃先を固定するため、全身でしがみつくように構える。
 上昇の勢いを失ったイスメトの体は、旋風の中心地へと向かって落下を始めた。

「――()は吹き荒れる砂漠の一陣!」

 神力が、熱が、(やり)に集まり始める。

(このまま落ちろッ! アイツの上に――ッ!!)

 ここであの技を放てば、必ずあいつに当たる。
 同時に着地手段を失った体は地面に(たた)()けられることになるだろう。あるいは技を打ち込んだ時点で、消し飛ぶなんてことも。

 だが、それでいい。
 どのみちこれが、今の自分にできる最大限だ。

 確実な手段など誰も知らない。
 だからこそ皆、自分にできることに死力を尽くす。
 きっと父も、そうだった。

 それが足掻(あが)くということ、生きるということだ。

 ――そうだろ? セト。

「《暴嵐神の豪(セテフ・グロ)――」
【おっと。そいつは後にとっときなよ、坊や】

 頭に直接響く、張りのある少年の声。
 瞬間、視界を光り輝く何かが横切った。
 その光から伸びた腕が、荒神の頭上へと叩き付けようとしていた槍の柄を横から(つか)み、その勢いを殺す。

「な――っ!?」

 どころか、落下していたはずのイスメトの体が重力に反して浮かび上がり始めていた。

「ホ……ホルス!?」

 少年を小脇に抱えた天空神は、嵐から生じた砂混じりの雲さえも突き抜け、昼の青と夕の赤とが溶け合う紅掛空色(トワイライト)一面の世界へとイスメトを誘う(  いざな  )

【セトの依代がなぜ生きている? しかもアイツの神力まで宿して……お前が荒神(アレ)の媒体になったわけではないのか?】

 青と金の双眸に見つめられ、イスメトの頭は真っ白になりかける。

 これはどういう状況なのか。
 邪魔された?
 それとも、救われた?

 より可能性が高いのは後者だ。
 今、自分とホルスの目的は恐らく近いところにある。
 セトへの攻撃をあえて邪魔する理由などホルスにはないはずだ。

 ならば、ホルスに助力を乞うことも、可能かもしれない。

「……っ、僕はアポピスに奪われたセトを、取り戻しに来た!」
【あー、そういう感じ。ならこっちとしても好都合、かな】
「実に命知らずで無謀だが、君は確かな使命感を持って動いているようだ」

 思念と肉声、両方で呼びかけられる。
 どちらも記憶にあるホルスの声だが、肉声にはどこか大人びた静かな雰囲気を感じた。

「――私は、そんな君の蛮勇に賭けたい」

 よく見ると、ホルスの体の至る所から琥珀色の光がサラサラと漏れ出ている。
 見た目こそ美しいが、それは依代と一体化する神の精神体にまでダメージが通っている証だ(  あかし  )
 十中八九、セトに負わされた傷だろう。

「君をかの神の元へ送り届ける。失敗すれば君の魂は死を迎えるが……試す価値はあるだろう」
「あなたは……ホル、ス……?」

 同じ顔だが以前とは正反対の印象を抱く少年に、イスメトは思わず問いかけた。
 彼は問いには答えず、口の前に指を立てて穏やかに(ほほ)()む。

「ここからは、口を閉じておくことを推奨しよう。舌を()んで死んだのではあまりに浮かばれない」

 その後に起きたことを、イスメトが正確に把握することはなかった。
 ホルスはイスメトを抱えたまま神術を展開する。
 イスメトごとその身を光に変えた神は、浄化の力を周囲に迸ら( ほとばし )せながら天から地へと降下した。

 雲の切れ間から差し込む陽光のように、彼らは一瞬にして砂嵐を切り裂く。
 うごめく闇でコーティングされた荒神の外皮を()ぎ飛ばし、さらにその体内へと潜り込んでいく。

 目指すは心臓(イブ)
 魂の座す場所。

【王! 僕らはここまでだ! これ以上は引き返せなくなる!】
「――だそうだ。健闘を祈るぞ、少年」

 巨体の頭部から喉元辺りにまで食い込んだところで、ホルスはあっさり離脱する。

「え!? な――!?」

 結果、荒神の体内にはイスメト一人が取り残された。
 体は泥のように粘る闇に沈み込み、瞬く間に()まれていく。

【これは僕からの(せん)(べつ)だよ】

 闇の中で意識を失う直前。
 閉じた瞼越し(  まぶたご  )でもはっきりと、何かがビカッと光るのを感じた。
 それはホルスの大弓から撃ち出された、()(はく)(いろ)に輝く(もり)だった。

「ぁが――ッ!?」

 銛はイスメトの肩に突き刺さり、全身に鋭い痛みを走らせる。
 その衝撃を最後に、イスメトの意識は途切れた。

「――まったく、君も面倒なことをする」

 依代から再び体の主導権を借り受けたホルスは、超高速で天へと駆け上る。その眼下では、痛みと怒りに打ち震える神の成れの果てが、(こう)(ない)から闇の濁流を吐き出し続けている。

 濁流はやがて魔獣の大群となり、地上の人間達をさらに苦しめることだろう。
 うかうかしてはいられない。

【しかし、私の案に賛同したということは……貴方もやはり、かの神とこのような決着は望んでいなかったのだろう?】
「フン……僕はただ、あの坊やが()()くやれれば(もう)けものと考えたまでだよ」

 早くも再生した荒神の頭部に、巨大な瞳がギョロリと開く。
 ホルスはすぐさま滑空し、全方位から打ち込まれる赤い雷撃をギリギリのところで(かわ)し続けた。そうして誘導されるように逃れた先には、やたらと鋭利な砂を(はら)んだ暴風が、翼を持つ魔獣を従えて待ち受けている。

「ここからは時間との勝負さ。坊やがアイツを(たた)()こすのが先か。僕らがコイツを(ほふ)るのが先か――」
【神のみぞ知る、というやつだな……】

 依代の言葉に、神はフンとせせら笑った。

【神にすら分からないさ。この世に定められた運命なんて、ないのだから】


目次へ戻る