稲妻のごとく迸る( ほとばし )神力が、イスメトの拳を通して男の中へと流れ込んでいった。

 豪風が周囲の柱という柱に亀裂を走らせる。
 踏み留まろうとする男。
 その足は大理石の床面をも(えぐ)りながら、めり込んでいく。

【――ッ! 調子に乗んなよ、クソガキがァァァ――ッッ!!】

 だが、それだけだった。

「ゴフ――ッ!」

 男に肉薄したイスメトの胸に、豪腕が食い込む。
 その腕が少し(ひね)られただけで、口からは大量の血が吐き出された。

【――もういい。遊びは終わりだ】
「セ、ト……」

 イスメトは(かす)む視界の中で、男の腕を掴む。
 それが唯一の抵抗だった。

(とっとと……っ、起きろよ)

 抵抗虚しく男の腕が引き抜かれる。
 男の手にはドクドクと脈打つ赤い塊が握られている。

(それでも、〈砂漠の民〉の守護神かよ……)

 本来ならば即死となるはずの傷。
 しかしイスメトは、その場にくずおれながらも思考だけは保っていた。

 ここは魂の世界。
 肉体は最初から存在しない。
 存在していると信じる自我があるだけだ。

 つまり、あれも本物の心臓ではない。
 セトと契約を交わした時と同じ。
 あれは僕の()()()()だ。

 僕はまだ、死んでいない。
 ならばまだ、何かできるはずだ。
 魂が消されてしまう前に。

「――、きろ、よ」

 何もかもが賭けだった。
 結局、僕にできることは最初から一つしかなかった。

 自分がセトの目覚めさせる。
 あいつはきっと目を覚ましてくれる。

 そう最期の最後まで信じることだけだった。

「――ッ、いつまで寝てんだ! このクソウジ虫野郎ォォォ――ッッ!!」

 男が心臓を握る手に力を込める。
 途端、イスメトの全身に崩れるような違和感が走った。

「うゥ……ッ!」

 崩れる。体が、思考が、バラバラになりそうだ。
 痛い、とは違う。怖い、とも違う。
 それらを感じる自我が、意識が、人間らしさそのものが、根本から失われていく感覚。

 イスメトは己の体を抱きしめることしかできなかった。
 ただその場に自分を留め置こうとするだけで精一杯だった。

 やがて、ぐしゃり、と。
 肉の弾ける音がした。

【ククク……今の一発は、最ッ高に(しび)れたなァ……】

 違和感が、やんだ。
 イスメトは反射的に顔を上げる。

 手が、突き出ている。
 男の左胸から。
 どす黒い闇の粘液をしたたらせて。

【お陰でようやく……目が覚めたぜ】

 男の頭頂から、今度は指が突き出る。
 かと思うとバシュッと(いっ)(せん)、赤い光が閃い(  ひらめ  )て、男の体を縦に裂いた。

 臓物のように、ドロドロの闇をそこら中にまき散らす男の体。
 それを内側から(・・・・)切り裂いて、そいつは平然とした顔で現れた。

【コイツは俺んだ。横取りすんなよ】

 崩れていく人型の腕から少年の心臓をもぎ取ったそいつは、歯を剥き出して凶悪な笑みを浮かべている。
 冥界に住む怪物も驚きそうな、えげつない()だ。

 そんな凄惨な光景を目の当たりにしたイスメトは、地に伏したまま薄らと笑った。

【バカ、ナ……オマエハ、完全ニ……取リ込ンダ、ハズ……!】

 赤い光を全身に纏う神――セトは、少年の心臓を頭上へ放り投げ、大口を開けて丸呑みにする。

【テメェが俺の十倍強ェだァ? ハッ! 笑わせやがる。テメェはただ混沌を喰らって、ブクブク太っただけのゲロ豚だろォが】

 その掌中にはいつの間にか愛用の戦杖が現れ、既に振り抜かれていた。勢いよく空中へと投げ出された闇は、壁にぶつかってビチャリと粘着質な悲鳴を上げる。

【俺はなァ、そんなテメェの分厚い脂肪に挟まれて、臭ェわ動けねェわ辛気臭ェわで最ッ高に――】

 舞でも舞うように戦杖を構え直した神は、瞬きの間に疾風と化した。
 そして、闇が壁面から剥がれ落ちるよりも先に肉薄する。

【イライラしてたんだよッ、このボケカスがアアァァァァ――ッ!】

 雷光のごとき刺突が、闇の中心に叩き付けられる。
 闇の塊を壁ごと粉砕した戦杖は、直後に赤い光の粒子となって消える。
 正確には、繰り手によってあえて消された。

【テメェは神でも何でもねェ! 鬱憤の塊! ゲロ以下だ!】

 両手をあけたセトは間髪入れずに、荒れ狂う嵐のごとき拳の連撃を見舞う。

 その破壊の渦中にいる闇は、千々に吹き飛ばされてもなお集結しようとするが、再び人型を取ることは叶わなかった。
 そうなる前に次の拳が叩き込まれるからだ。

 神の怒りに触れた闇は、もはや豪雨に荒れる水面のようにその身を波立たせることしかできなかった。

【ゴミ屑以下がいっちょ前に、神だの世界だの眠てェこと語ってんじゃねェぞオラアァァァァ――ッ!!】

 その豪雨に終止符を打ったのは、上昇気流を伴う打ち上げ。
 闇はこの空間そのものに無数の亀裂を生じさせながら、遙か上空まで吹き飛ばされた。

【――ったく】

 ひとしきり暴れて満足したか。
 突発的な大嵐はセトの吐き出す長い息をもって終息する。
 イスメトが軋む体に鞭打って上体を起こす頃には、すぐそばでいつもの不敵な笑みが見下ろしていた。

【おッせェんだよ、クソウジ虫野郎が。お陰で全身ヘドロまみれだぜ】
「っ、はは……これでも頑張ったんだ。少しは褒めてくれよな」
【あァ? なんだ、髪型でも変えたか?】

 両者ともに口の端をつり上げる。
 セトはイスメトの腕を掴んで強引に立ち上がらせた。

【冗談はさておき、だ。とっとと再契約かまして、こっから出るぞ。俺の覚醒でこの器はパンク寸前だ】

 その言葉通り、精神世界は崩壊を始めていた。
 美しい宮殿の様相など、もはや影も形もない。
 絶え間なく地面は震え、白い壁も美しい装飾も剥がれ落ちて闇に閉ざされていく。

 ここはザキールの魂を間借りして展開された、混沌セトの精神世界。
 だが、一つの肉体(うつわ)に二つの神格は収まらない。
 ゆえに魂が形を保てなくなったのだ。

 このままでは崩落に()まれて、ザキールの魂ごとイスメトの魂も消え果てる。

「――分かった。契約する」
【なら、願いを言え】
「え?」
【え? じゃねェよ。前の願いはもう(かな)えちまっただろ。再契約すんなら別の願いがいるぞ】

 依代の願いを叶える代わりに、神はその体と人生を借り受ける。
 叶える願いは一つとも複数とも限らない。
 その人間から借りた人生の長さ、意義、価値に釣り合うだけの願いを神は叶える義務を負う。

「あ……そ、そうか。そういうもの、なのか……」

 イスメトは眉間を揉んだ。
 セトを助けることが自分の――ひいては皆の願いだった。
 そして、それはもう叶ってしまった。

【~~っ、早くしろ! 時間がねェんだよ! ホント締まらねェなテメェは!】
「わわ分かってる! えと、ええっと……」
【なんかあるだろ! 王になりたいとか金持ちになりたいとか美女をはべらせたいとかよォ!】

 やたら俗物的な例ばかりなのは気のせいだろうか。
 いや、確かにそれらも魅力的な夢ではあるが――自分にはいまいちピンとこない。

「……あ」

 ようやく一つだけ思い当たるものを見つけ、イスメトは顔を上げた。
 そうだ。願いならあった。
 自分の中では当たり前になりすぎて、今さら願うのも変な話かもしれないが。

「……決まったよ、セト。僕の願い」

 いや、当たり前ではなかった。
 すべてはセトに(ささ)げた願いから始まった。
 そしてこれからも、願わなければ決して始まりはしない。

 だからこれはゴールではなく、きっと最初の一歩なのだ。

「僕は、英雄になりたい」
【そいつは却下だ。既に叶ってる】
「違う、そうじゃなくて。僕は、もっと(すご)い――そう、この国のすべての人を救えるくらいの大英雄になって、伝説に名を残したいんだ。()()()()()()
【は――】

 神は一瞬、固まった。

【ク、ククク……】

 ぽかんとした表情は、やがて哄笑(こうしょう)へと変わる。

【クハハハハッ!! なんだその途方もねェ願いは!!】

 この世に『すべて』だの『完全』だのという事象(モノ)はない。
 よって『国のすべてを救う』というこの願いにも果てはない。
 契約が成立すれば最後、少年はまさに今後の人生のすべてをその願いに捧げる羽目になる。

 そして、神自身も。

【オマエ、意味分かって言ってんだろォな? そいつは平凡な人生と永久にオサラバするってことだぞ】
「……強欲すぎて、お前じゃ荷が重いか?」

 少年は笑っている。
 まるで悪友にでも笑いかけるかのように。

【ハッ、ほざけ】

 神も笑う。その手を少年へと差し向けながら。

【――いいだろう! その願い、乗ってやるぜ相棒ッ!!】
「おうッ!!」

 少年は一切の躊躇な(  ちゅうちょ  )く、神の手を力強く(つか)み返してみせた。

 足下から生じた風が、赤い輝きを放ちながら一人と一柱を取り巻く。
 まるで砂嵐の中へ閉じ込めるかのように。
 両者の魂を包み込んだ旋風はやがて光の柱となり、闇の世界から飛び立った。


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